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生き様を求めるという野心

ある程度の人生のステージまでは、人は抱いた野心を消化するために生きていく。実現して消化されることもあれば、挫折して消化されることもある。

えてして、若い時は比較的原始的な野心を持つことが常だ。例えば、自分を馬鹿にしたやつをギャフンと言わせたい。あの子にすごいと言わせたい。そんな類のことだ。それは、大人になってから振り返ると、ずいぶん動物的で衝動的な野心なのであって、悩みながらもがきながら日々を送ると、徐々に成仏をしていくものだ。若き成功者として見事に野心が叶う形で消化されることもあるのかもしれないけれど、ほとんどの場合それは、平凡な何者でもないものが、現実を受け入れていく形で消化されてゆく。大体それは35歳くらいが目安になるのではないだろうか。決して完全にスッキリ解決。という意味ではなく、受容という名の降伏プロセスが一旦落ち着く時期がそれくらいなのでは。という意味だ。

野心が成仏した先の人生には何があるのだろう。さらに言うならば、そこから先、いったい何が自分を突き動かしてゆくのか。それがさっぱり見えなくなってしまう人が実に多く出てくるのだ。若くして社会的な成功を収めた者であっても、実は個人としてはそういった疑問を抱えて日々を走っている。いわんや、何者でもない者たちをや。

このような人生フェーズまで来ると、人間がとれる態度は二つしかないように思う。一つは「野心をいたずらに掲げず、現実にひたすら向き合う」という、生きているようで生きていない人生を(ほとんど無意識に)送るやり方だろう。これはむしろ人間として自然な姿だと思う。やりたいことがない人は無能だというのは全くの誤りで、人類のDNAにはそういうプログラムがセットされているというではないか。

しかし稀に、そんな人生は嫌だともがく人たちが一定数いる。その人たちが取れる態度のもう一つは「野心の種類を変え、もっと持続性のあるもの(つまり、簡単に消化されにくいもの)を見つけにいく」というものだ。おっさん、おばさんと言われる年代に差しかかって、この二つ目の姿を目指して、俄然とソウルサーチをはじめる。まさに大人の遠足が始まるのはややもすると滑稽なのだが、それはそれで当人たちは必死なのだ。

刹那的ではない、長く長く、燃やし続けることができる野心とはいったい何だろうか。 僕はそれは「自分の生き様を決める」ことなのではないかと睨んでいる。

いろんな人の話を総合していくと、生き様には、2つの方向性があるように思う。ひとつは、名(name)を残す生き様。ニュアンス的に名声(fame)ではなく、名(name)。自分の名を、小さくてもいいので、しっかりと、この地球に刻むような生き方だ。

もうひとつは、快(pleasure)を求める生き様。ニュアンスとして楽(fun)と似ているのだが、そこまで衝動的ではなく、もう少し精神的なものでスローなもの。そういった深い悦びを得られる活動をよしとする生き方だ。

そもそも人生なんて一直線ではないし、単純なものではないので、AかBかどちらか完全に決め切ってしまうことが求められているわけではないように思う。二つの大きな枝分かれではあるが、二つが決して交わらない訳でもなく、究極的にはそれらは相互に結びついていくのかもしれない。究極的な幸福というものがもし、人生に訪れることがあるとするならば、この二つが結びついて、悦(satisfaction)へと昇華するのだと説明することもできるかもしれない。


話を変えよう。自分を含めて多くのおっさん・おばさんを観測していると、つくづく人間というものは無い物ねだりをする生き物なんだなと思う。いつまでたっても、どれだけ成功したとしても、それは変わらない。思うにそれはなぜかというと、人は刺激や摩擦を常に求め続けるからではないか。何らかの摩擦がなくなると、人間の細胞は溶け始めると聞いたことがある。それでは生きられなくなる。

よく、得意なことをやればいいじゃないかと言う。それは理にかなっているのだが、なかなかどうして、普通の人間にとっては実行し続けることが難しいアドバイスだ。その理由は簡単。得意な事は飽きるのだ。得意なので、しばらくは、やり続けられる。しかし極めてくると、やがては息を吸うようにできてしまうようになる。そうすると刺激を得られなくなってくる。何らかの意味を持たせないと、持続できなくなっていく。そこで、エネルギーをキープする助けとなってくるのが、そろそろ生き様を確立したいという野望なのだ。得意なことを続けるために相性がいいのは、間違いなく一つ目の「名を残す生き様」と言える。だんだんつまらなくなってきたけども、これが自分のこの世に生まれてきた証であり、その理由を、この地上に刻みたいと言う一心で、決してもう、かつてのような刺激は得られないかもしれないけれども、1つの作品を完成させる感覚で、やり切ってしまおうということになる。これは続けられる。なぜなら、自分の名を残すという目的は、簡単に達成されないようにできているからだ。

それでは、2つ目の持続可能なエネルギーとなりうる、「快」を求める生き様は何をもたらすのだろう。こっちは日本社会においては、少し言葉を大にして邁進するのは気まずい類の生き様に聞こえるかもしれない。「快」とは何だろうか。それは「楽」のような目先の小さな快感とは別の何か。それは、「名」を残す生き方で求められる、自分の得意なことをやって行くこととは反対で、自分が興味はあるけども不得意なこと。自然にはできないようなことを、時間をかけて身に付けていこうとする姿。言ってみると、それは自分の理想とする姿と、自分の現状とのギャップを埋めていくことから得られる快なのだ。例えばだが、快適で安定した組織を飛び出して独立してみるというチョイスも、実は快を求める生き様と言えるケースが多いのではないだろうか。不得意というか、未経験な経営や営業や経理を全部やらないといけないので、苦労が絶えないことは百も承知。それでも自由というものを掴むために、ひとつひとつクリアしていく人生を選ぶことは、刺激と爽快感をもたらしてくれるはずだ。そしてこれは、麻薬的な持続性がある。なぜなら、苦手な事は良くなることはあれど、いつまでたっても、きっと苦手のままだから。

苦手なことをやることで快感が得られる。という話は、直感と逆に聞こえるかもしれない。でも、実際にそういう風に人生はできているようだ。残念ながら人間はそんなに合理的な生き物ではない。冒頭申し上げたように、人は、他人の庭が美しく見えるものです。そういった庭を憧れて整備して、花を咲かせようとする。でも、結局たいした花が咲かない。名は残らないかもしれない。でも、それでもいいじゃないですか。なぜなら、そのプロセス自体が大きなエネルギーとして持続し、生き様として納得感をもたらしてくれるので、それでいいんですよ。


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