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評論(本)のおもしろさ

よっしゃ読もうと目の前に置いた本を差し置いて、もう無意識にSNSで気になるニュースや有識者のコメントなどどんどん開けば流れていくタイムラインを見てしまっていて終わった後の自責の念ははんぱない。
だが、今年夢中になって読んだ本は、美術ライターであり、数々の展覧会のキュレーターを幅広く手掛けている橋本麻里氏著『かざる日本』である。

彼女のことは、ニコニコ美術館のナビゲートで知り、そのユーモアと切れ味抜群な語り口、書きっぷりに魅力を感じることがきっかけだ。本著は専門である日本美術の個々のものをジャンルまたいで取り上げ、自身の経験も踏まえながら批評した本である。全く門外漢の私でも楽しく読むことができ、論評が堅苦しくてつまらないと一方的に抱いていたイメージを一変させた。

評論「めいた」ものは、ついつい見てしまうSNSのタイムライン(主にTwitter)で無数に流れている。その中には有識者、専門家の発信もあるが批評、批判というよりは個人的な気持ちだったり、性質悪くなると誹謗中傷のコメントとなってしまう。まだ一冊しか読んでないので批評とはなんぞやという問いに対しての明確な答えはないのだが、数年かけて構想が練られ、参考文献を読みつつ執筆し、推敲を繰り返し、世に出るというプロセスを経た批評はいくらSNSが隆盛であろうとも意義深いものだし居続けてほしい。

若干話題が変わるが、日ごろの時事問題の情報収集、見方はジャーナリストや専門家の人が発信するネットメディアから仕入れている。これも安倍政権になってから既存メディアがスポーツかバラエティに寄ってばっかりの報道しかないのが原因だが(NHKでさえこの体たらく)、TVから時折流れてくる記者会見の映像見るとひたすら記者がうつむいてキーボードを叩く音が異様な程大きい。オンラインメディア、あるいは既存の競合他社に負けまいと速報性を勝ち取るゆえの行動らしいのだが、そこには相手との問答、それを受けての自身での咀嚼のプロセスがない。何事も第一歩には事象を把握し、記録する大切さは言うまでもないが、その先の考察は言論人である彼らしかできないし、責務だと思う。手間をかけないゆえの世に出るニュースの偏り、流れる情報量のなささ、質の低さによる特定の属性に対する嫌がらせの防波堤となるのが、批評ではないか。
そして、初心者にとってはよきガイド本となり、ある程度詳しい人なら新たな視点を得たり、あるいはこれは違うのでは?と立ち止まって考えたりすることができる。私にとっての『かざる日本』はあらゆるものことへの興味を抱く入り口となった。論評はフィクションとは違うけれども、種類が違う「創作」である。自分がもの作ってないから・・とかではなく、受け手が作品をどう感じるかは自由だし、それについての意見は独自のものになるからだ。作り手がいないと批評対象は世に出ないのだが、一旦自分の手を離れるとそれをどう受け止めるか、描き出すかは批評家の裁量にかかっている。単に文句言ってるというのではなく、新たな肉付けを与え、広く人口に膾炙する媒体として自身の観察眼を培い、推敲することができる。あらゆる意見(クソリプも含め)が大量にあふれる中で貴重な指針の一つを指し示すと私は思っているし、そうあり続けてほしいと一読者として本著を読んで面白さを感じると同時に願っている。

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