京極殿三國志(仮・2


とても良い香りが鼻先を擽っていた。
ーーー此処は桃源郷なのかもしれない。
だったらどんなに素敵だろう、関口は夢うつつに想う。
「‥‥うふふ」
無意識に関口は微笑んでいたようである。
「コラ、不気味に笑うなッ!」
頭をポカリと叩かれ、意識が戻った。
「‥ん、ぅう‥?」
気づけば、立派なお屋敷の庭先の縁側で関口は横になっていた。
傍らには、先刻の美麗だが奇矯な男と、まるで立方体のような強面男が鎮座している。
だがその存在より、関口は嗅覚に気を取られ、いい香りのする方へぼんやりと目を遣った。
広く良く手入れされた庭である。そして見渡せば、沢山の桃の花が満開に咲いていた。
柔らかな桃色と芳香に覆われた幻想的な空間。

「ーーーああ、なんて綺麗なんだ‥‥」
関口は横になったまま、呆けた様に呟いた。

「気に入ったか?此処はいいだろウ!何しろ僕の庭だからな」
張飛・榎木津は得意げに笑みを湛える。どうやらいい所のボンボンらしい。
「ええと‥‥」
むくりと身体を起こし、関口な己を見下ろす二人にようやく視線を遣った。
「ーーー榎木津さんと、」
「オウ。俺は関羽・木場。驚いたぜ、いきなりぶっ倒れやがるからな」
酒をグイと呷りながら四角の男は関口に頷く。
「でーーー、お前さんは英雄になりてえんだって?俺は更にたまげたね」
関口はぎょっとして榎木津を見た。
榎木津はわははと屈託無く笑い「全部話しちゃったのだ」と、やはり酒をグビグビ呑んでいる。
「い、いや、僕は‥‥」
「聴けば、中山靖王の末孫だそうじゃあねえか。ま、そんなのはどうでもいいがな、面白そうだ。俺も仲間になるぜ」
木場は関口の言葉などには耳も貸さず、あっさり云う。
「だいたいよ、最近怪しげな宗教の奴等がのさばりやがって、俺は面白くねえんだよ」
「うふふ」
榎木津はご機嫌も露わに、ひらひら落ちて来た桃の花びらを関口の鼻に貼り付けた。
「な、仲間ってーー」
いきなりの展開に、関口は鼻を擦りながら中腰で叫び声を上げた。
「よし!義兄弟の契りだッ!うん、順序は馬鹿な順。長兄は猿。キマリだッ!」
榎木津は盃をもう一つ取ると、関口の手に載せた。
「てめぇ、俺がお前より馬鹿なワケねえだろが!」
木場はなんだかんだと反抗していたが、何を言っても無駄と知ってか、どうでも良かったのか、次兄となる事にとりあえず了承した。
「ちょ、ちょっと待ってください、ーー僕は、」
大人しく酒を注がれながらも関口はもごもごと抗う。
ーー義兄弟だって?何の話しだ一体。
まさか、英雄がどうとかをこの二人は真に受けてーーー

「いいから僕等に任せろッ。猿を立派な英雄にしてやる!」
「オウ、任せとけ」
頭を掴まれ、無理矢理酒を飲まされる。
「わははは、猿面兄者か!こういうのもたまにはイイ!」
「なんだそりゃ」
二人の暢気な言葉を朧に聞きながら、関口は素敵に香る桃の世界に酔った。

もうどうにでもなれ、である。

「ーーーあぁ、ピンクの像が‥‥」


こうして、長兄劉備・関口、次兄関羽・木場、末弟張飛・榎木津の三兄弟が誕生した。
運命というよりは、関口の意志の薄弱さこそが歴史を創る事になるのだった。
それも天命であると云ってしまえばそれまでだが、悪趣味な神の悪戯には違いない。

『桃園の誓い』

これこそが、後世に語られる一大イベントなのである。



***

さて、その後。
榎木津はやはり資産家だったらしく、家来や下僕、信奉者など多数おり、端から劉備軍はなかなかに盛況だった。
英雄・劉備。
右に関羽、左に張飛を従えた関口は、実際は逃げ出さない様に挟まれていただけにも拘らず、弱々しそうな風体ながらも何故か人々に温かく迎えられた。
どういう成り行きか、なんだかんだと周囲が誤解したのである。
まず、ボソボソと呟かれる意味不明な言葉を深淵なる言質と取った。
『黄巾の乱』に於いて「ひぃ」と中腰になって剣を交わした姿や、唖然と立ち尽くす姿を勇気と自信に溢れる為と見間違った。
とにかく関羽、張飛の強さと云ったら尋常では無い。
その二人が兄者と慕う彼が、まさか鬱持ちで、失語症や対人恐怖症まで時に併発し、尚且つ一片の「理想」も持っていない彼岸を恋うるただの呆けだとは誰も考えなかったのである。
そんな感じで集う人々は段々と膨れ上がり、立てた戦功の数は否が応でも増えることになりーーー
関口を「我等が英雄」と称えた。
ーーーーいいかげんである。



『安寧な世を目指し立ち上がるのだ!』
‥‥どうでもよかった。スローガンなど大嫌いだった。
勿論、平和に越した事は無い。だが、何故自分が率先して努力する必要があろう。
関口には平和だろうと、乱世だろうと『安寧』などとは己が無縁なのが判っている。
だからーーー全く興味の無い面倒に引き摺られ、彼はかなり鬱だった。
鬱々である。

「‥‥あぁ、もう、厭だ」
関口は一人きりになれる場所を漸く見つけ、ぼそりと呟く。
ーーーなんて事だ。
関口は思う。
己ほど英雄から遠い人物もそうは居ないであろう事は重々承知している。なのに流れには逆えず、諾々と深みに嵌っている。


黄巾賊は、劉備軍も含む英雄たちによって討伐された。
だが、治世は落ち着くどころか更に激しい牽制争いへと局面を度々替えてゆく事になる。
朝廷を牛耳っていた宦官達も惨殺され、傀儡とする皇帝を擁立するために幼帝は母后ごと殺された。
権力を我が者にせんと、董卓という男が突出し朝廷を支配したのである。
だが彼の行状はあまりにも極悪非道で、世相は坂を転がる様に悪化して行った。
その董卓を討とうと、英雄達は集結し成果を上げるがーーー今日の友が、明日も友とは限らない。

ーーー乱世は野望に満ち、それぞれが思惑をその胸の中に秘めているのである。

『此處に劉備軍あり!』
その名を馳せる契機となったのは、董卓の養子であり、天下一の強さを誇る呂布相手に、関羽と張飛が互角に戦ってからである。
その馬首を交わした戦いには、何故か関口も混ざっていた。
榎木津に「関も混ざれッ」と、馬の尻を蹴られたからである。
心中では「ひぃーっ」と叫びながら、剣を握り締めた腕を伸ばしたり縮めたりしてみた。右や左に動かしたりもした。

ーーーなんとかなるものである。
大した醜態も晒さずに、気づけば関口は生きていた。
それどころか、三兄弟は諸侯の働きの中でも軍を抜く、という程の大活躍だったのである。
勿論二人のお蔭ではあったのだが、関口の胡散臭い血筋もなんだか役には立っているらしい。

そうして情勢はひたすら大袈裟になっていった。
軍の者は目を輝かせている。
関羽と張飛に至っては、劉備の戸惑いを知りながらも悪巫山戯を極めようという魂胆らしく、彼を手放そうとしない。
本気で関口を英雄にするつもりらしい。行き着く所まで行くつもりなのだ。
そして今ーーー
権勢を振るうのは、皇帝をないがしろにし丞相となった堂島・曹操だった。
都を許昌に遷し、悪辣ぶりをこれでもかというくらいに発揮して、まさに諸侯の嫌われ者である。
乱世の奸雄と呼ぶに、相応しいと云えばあまりに相応しい男だった。

関口は堂島・曹操との会見を思い出す度、その時感じた口の中の厭な味をも思い出す。
それは、ーー関口が嘗て覚えたことの無い種類のものだった。


「ーーー劉備殿はゲームがお好きですかねぇ」
鷹の様な鋭い目付き。意志の強そうな真っ直ぐとした眉。確りとした顎。
これこそが英雄というものか、関口はゴクリと唾を飲み込んだ。 ーーーとても怖い。
なんだか背中にオーラまで背負っている。

どんな思惑かは知らぬが、堂島は庭弄りをして憂さを晴らしていた劉備のもとへ突然訪ねて来た。
追い出す訳にもいかない。榎木津も木場も此処には居ない。
つまりとても厭な事に、恐ろしい堂島・曹操と二人きりなのである。
酒と料理を用意し、なんとか席を整えた関口は勿論、汗まみれだった。
「い、いえぼ、僕は」
ボソボソ呟く関口を興味深げに眺めながら、堂島はにやりと笑う。
「己を英雄などと称した愚かな輩が、天下を取ろうと四苦八苦している。ーーー実に面白い」
堂島は更に云う。
「遍く凡ては変わるようにして変わり、革命を起こしたと勘違いしていながら世界はただなるようになっただけ」
「そ、曹操殿ーー?」
其処で関口は漸くこの男の何処か常人とは違うーー否、根元から滲み出るような恐ろしさを感じ取った。
「我々の住む世界は元来傾いている、だからーーほんの一寸押すだけでいい。」
堂島は真っ直ぐと関口を見た。
「ーーあなたは、ああ気付いているのでしょうねぇ。己の居場所が此処では無い事を」
「‥‥あ、」
「あなたも私と同じ側かと思ったのだがーー違うらしい。だから豫州を任せてみたのだが」
劉備は曹操によって豫州という地方の官に任じられていた。
「ぼ、僕はーー」
足元が揺らぐ。
「私のゲームに貴殿は面白い出演者かもしれませんねぇ‥‥だが、華胥(かしょ)の国に居ればいいものを。愚かなーー」
その時、雷鳴が鳴り響いた。

関口は手に握っていた箸を取り落とす。
堂島の相貌が、雷光によって化物のような陰影を象る。
薄い唇が、関口の其処にふっと触れ、長く厚い舌が口蓋をぬるりと這う。

「娯しめない者に、資格は無いーーー」

関口は其処で意識を失った。

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