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障害があっても障害が無くても

皆さんは障碍者をどんなイメージで観ていますか?
障碍者のイメージは暗いとか、頑張っているとかだと思います。
そんなイメージを壊すために私はしてきたのです。
重度障碍者の私が実家を出て一人暮らしをして、自分で思ったことをしてきたのです。障害があっても無くても自分のやりたい事をするべきです。
吉田拓郎や長渕剛や浜田省吾のコンサートに行ったし、プロレスの試合を観戦していたし、風俗にも行ったのです。

健全者から障碍者になった人達がいる。そんな障碍者が多くなってきました。昔はそんな障碍者は表には出なかったのです。自分が障碍者を馬鹿にしていたり無視したりしていた存在に自分がなったので・・・。
産まれつき障害を抱えて出てきた人達は、障害がある自分が当たり前なのです。
自分は当たり前なのに、親から自分で何とか食べるようになったり、自分で何とかトイレに行くようにとリハビリを強制的にさせられるのです。障碍者が自分でリハビリをしようとは思わないのです。
学齢期になれば住んでいる家の近くにある学校に入学するのは当たり前なのに、障害がある子供は家から離れた学校に入学させられるのです。国の方針で、障害がある子供は「特別な教育・特別な支援」が必要なので特別支援学校に行ってもらうと言う事だったのです。「特別な教育・特別な支援」をどうして普通の学校で出来ないのだろうか?私は不思議なのです。ただ「障害」があるだけなのに。

特別支援学校は「障害」のある子供達を集めた学校なのです。その中にもレッテルを貼られたり、虐められたりするのです。先生に良く褒められている生徒と、先生に目を付けられる生徒がいます。身体に「障害」がある生徒は、頭は普通に動いているので、対等に先生と話せるので、学校側もそれなりの事をするのです。知的障害者は先生からも馬鹿にされたり、虐められています。同級生からも差別されているのです。普通の学校と要するに同じなのです。それを親も周りの人達も特別支援学校は違うんだと思い込んでいるのでしょう。普通の学校に「障害」がある子供が入学すれば学力が悪くなるとか、環境が悪くなるからと言って「障害」がある子供を排除するのがPTAなのです。学校は学力をつけてるだけではないのです。みんなで生きる力を身に着ける場所にならないと行けないのです。「障害」がある子供の親は虐めに合う事が怖いから普通の学校には行かせないようにするのです。学校を卒業すれば社会に出て、人に揉まれて生きていかなければなりません。いつまでも守ってくれる人なんていなくなるのです。自分一人になるのは、当たり前なのです。
一人になる準備を早いうちからした方が良いのです。社会の人達を巻き込んで障碍者は生きていくのが良いのです。私が思うのは理想かもしれないのです。

折角この世に人間として出てきたのだから、自分の理想を作って、それに近づけるために努力をしていくのです。それが生きる目的になると思います。
でも産まれつき障害者が健常者になろうとして、死ぬまでリハビリを続けても無意味なのです。私は子供の頃母親から「大きくなれば奇跡が起こって歩けるようになれる」と言われ続けて機能訓練をしていました。とうとう60代になっても一人で歩いた記憶はありません。母親は私に「激励」・「願い」と言う気持ちで言っていたのではないかなぁと思っています。機能訓練が生きる目的だけなら面白くない人生だと思います。何十年も歩く訓練をしても街の中では一人で歩けないのなら訓練をする意味があるのだろうか?
普通の人達は好きな事をして楽しんでいるのに「障害」があるだけで、「頑張って」訓練をしなけば行けないのだろうか?

障碍がある私に何が出来るんだろうか?そんな事を20代の頃考えていました。丁度その頃世界障碍者年をテレビで宣伝していました。時代も変わりつつありました。私が車椅子でお酒を飲みに行けば断れていました。「あなた、お酒飲みたいの?」「お酒飲めるの?」「一人で来たの?」質問攻めでした。おまけに「どこの施設から来たの?」を聞かれていました。車椅子で駅に行けば改札口が狭いので、駅員が4人、5人来て改札口を抱えて通っていました。毎日それが続けば社会問題になってきたのです。マスコミに取り上げられてやっと改札口が広くなってきたのです。時間がかかったけれどね。障碍がある人が何か行動すれば人は変わるし社会も変わるのです。それでも田舎に行けば、周りの人達が障碍者が声を出して、社会に訴えていると嫌がるのです。どうしてだろうか?特に障碍者の家族が嫌がるのです。自分達は何も知らないくせに。何も活動しないくせにね。当事者は障碍者なのに。私達に社会活動をさせないようにするのです。障碍者に理解している人達が本当は、一番障碍者を理解していないような気がするのです。

重度障碍者は介護者を使って生きるしかないのです。今の時代は金を媒介して障碍者と付き合っているのです。金を媒介しての付き合いは本当の付き合いになるのだろうか?疑問に思うのはおかしいだろうか?
最近の障碍者は特定の人達としか付き合いがないのです。私もヘルパーや家族や障碍者だけかもしれないのです。昔は様々な人達を巻き込んで暮らしていたのにね。今は福祉関係者が多いのです。私達障碍者団体が介護保障を国に訴えて来たので、やっと国が動いて制度を作ったので、今は重度障碍者も地域で暮らせるようになってきたのです。

介護を専門職にしたのが間違いだったんじゃないかなぁと思っています。障碍者の家族には介護の資格はないけれど介護が出来るのに、普通の人は介護の資格がないと出来ないのです。それが不思議とは思わないのかなぁ?だから今もなお日本では家族介護が多いのです。生活保護の介護者にヘルパーの資格は要りません。だから誰が介護してくれても良いのです。その方が慢性人材不足から脱却するではないのかなと思っています。私達障碍者団体は介護保障を要求していましたが、今の介護制度とは違うのです。誰でも気軽に障碍者と付き合いができ、付き合いの中で介護をすると言うイメージだったのです。今のヘルパー制度は完全に介護を仕事にしています。仕事が終わればその障碍者との関係はなくなるのです。仕事が休みの時は障碍者なんて無視をしても良いのです。道端で障碍者が声をかけて、手伝ってくれと言っても手伝わなくても良いのです。給料に反映ならないから。それが今の時代です。

障害者総合支援法や障害者の制度が出来る前は、障害者本人が行動して介護者を探していました。ビラを作って、人の集まる場所に行って、ビラ配りをしたり、知り合いの大学の先生の所に行って、学生を紹介してもらって介護者にしていました。健常者と障碍者の個人的な付き合いで介護をしてもらっていました。金銭的な付き合いではなかったのです。意見の違いがあるときは朝まで話し合っていました。お酒を飲みながら裏ビデオを見たりしていました。障碍者団体の集会がある時は一緒に参加していました。一緒に何かをしたり、一緒に何かを感じたりすることが「共に生きる」と言う事でしょう
今の人達も一緒に障碍者と何かをして、感じれば「共に生きる」と言う意味が分かるんじゃないかなと思います。

障害があっても障害が無くてもこの時代に生きているのだから・・・。


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