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匂いと音と光と

 今年の5月に、東京から山梨県の富士吉田に移ってきた。マンション暮らしではあるが、ベランダの正面には巨大な富士の山がそびえ、逆方向の窓を開けると裏山が迫っている。
 ここのところ戻り梅雨のような雨がつづいていたが、東京にいる頃は、雨が降ったあとには街中に生魚のような臭いが充満することがよくあった。海に近い街ならばまだ理解ができるのであるが、山の手の住宅地でもなぜか生ぐささを感じたものだ。あれは、はたしてどこからやってくる臭気だったのだろうか。
 今の住居では雨が止んだあとに窓を開けると、風に乗って土や緑の、そして山のにおいが部屋の中に流れ込んでくる。「山のにおい」と「土や緑のにおい」は同じことじゃないか、と言うなかれ。山の臭気は、通常の土よりも多くの菌臭を含んでいるものだ(自説)。自分などは山のにおいをココチヨイと感じるのだが、もしかしたら都会の子どもなどはこれをクサイと感じるのかも知れない。
 もう一つ、ときどき日中に、どこからか漂ってくる懐かしい香りがある。焚き火のにおいだ。自分が子どもの頃には、杉並の住宅街の中でも家の庭で焚き火をすることがあったが、いまの時代の都会では焚き火などしたら即クレーム、それこそ即炎上だろう。あの薫香に安らぎを感じるのは、地球上で初めて火を手にした生物であろう人類の、何十万年以上にわたるDNAの記憶に由来するものではないかなどと勝手に想像している。
 今の季節には夜明け時からヒグラシが鳴き始め、朝になれば鳥たちの声で賑やかだ。夕暮れ時に再びのヒグラシが鳴いた後は、周囲に田んぼが多いわけでもないのに蛙の合唱が始まる。このような長閑な音の環境は想定内であったのだが、他にも心の安らぎを誘う意外な音があった。自分は「村の放送」と呼んでいるが、地域内の数カ所に設置された屋外スピーカーから流れてくる自治体による告知放送のことだ。地区のイベントの知らせや選挙の投票の呼びかけ、新型コロナ感染対策の注意などの広報がアナウンスされるのだが、時には夜になっても帰って来ない高齢者の捜索願いなどもあり、その人の背格好や服装などの特徴がスピーカーを通じて伝えられる。その後、行方不明者が無事発見されれば、翌日などにちゃんとその報告も放送される。誰にでも聞き取りやすいようにであろう、非常にゆっくりとした口調で告知をくり返す声がエリア内にこだましていく。
 都会であれば騒音の多さ、人間関係の希薄さ、生活様式の非単一性などによって、このような告知スタイルは成立しえないだろう。距離的なまとまり、そして人間関係の近さなどがあってこそのなせるわざだ。自分はそこにコミュニティとしての健全さを感じて、なぜかホッとするのである。
 空は広く高く、昼には眩い陽光に包まれ、夜にはきちんと暗くなった天空に多くの星が瞬き、当たり前のように静寂が訪れる。そして翌朝、6時頃になれば、小鳥たちのさえずりを包み込むように寺の鐘が長い余韻を響き渡らせ一日の始まりを告げる。ビジネスの都合や効率が先導するのとは異なるゆったりとした時間の流れが非常に心地よく、気持ちも穏やかになるのを感じる。ふと考えてみれば、都会にいる頃には連続して三時間も眠れなかった不眠症気味の自分が、最近は朝まできっちり眠れていることに気づくのである。(天国)

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