転んで上等☆おむすびころりん

わたしは2年ほど前から、いままきまさみちさんの元で『リーディング』という自由自在な意識の使いかたを学んでいます。

元々何をやっても長続きしない質で三日坊主を尊敬する勢い(つまり二日と続かない…)のわたしは、このリーディングもおなじように早々に続かないでいました。
まさみちさんのリーディングに「わたしのやること、これや…!」と大感動して熱くなっておきながらの、「眠いしなんかよくワカンネ、やーめた」です。

そのさまはまさにおむすびころりん、といった容易さで、なんというか当人からすると「自然の流れには逆らえんわなあ…」という感覚です。

あれだけの熱意を表明しておきながら、わたしの決意ってこんなもんかあ…、と転がっていった何度めかのおむすびを眺めたままただぼーっと立ちつくすかんじ、もしくは転がっていったおむすびがわたしナノカモネ…というかんじでしょうか。
そして「ま、しゃあねえな」と布団にくるまって寝そべるのがいつものパターンでした。

ところが、まさみちさんのリーディングに対してはどうも様子がちがいます。
「おむすびころりん→布団にくるまる」まではおなじなのですが、なんどもなんどもなんどもなんども、何度あきらめても気づけば布団から這いでてまさみちさんのセッションを受けているのです。

さて、わたしは1ヶ月まえに自宅でとつぜん叫んで暴れるということをしました。

衝動的なものだったのでどうしてそういうことをしたのかはわかりませんが、「今度こそ本当にリーディングの道をあきらめた」となったことで自暴自棄になったのが原因のひとつかもしれないな、と自分では思っています。

記憶がはっきりしていないのですが、暴れた前後にわたしはまさみちさんにとつぜん電話をしました。これも衝動的なもので、なにを話すのかも考えていないものでした。(わたしはこのように、ちょいちょい自分でも不可解な行動を衝動的にすることがあります。こまったもんです)

電話口に出たまさみちさんに、わたしは「わたし、リーディングやりません。今までありがとうございました」とにこやかに言いました。そこでわたしは「おお、わたしリーディングをやめるんだ」と知りました。

まさみちさんの返答ははっきり覚えていないのですが「ああ…、そうですか。はい、わかりました」というような短いものだったと思います。

わたしは「自分の声がへんにうわ滑りしてるなあ」という違和感を感じましたが、それよりも「あのまさみちにとうとう言ってやった!」という"してやったり"の嬉しさの方が勝って、電話を切ると解放されたようなゆるんだ気持ちになりました。

ちなみに、まさみちさんはわたしにとってメンター(導師)であり、人生を歩むうえで欠かせない存在です。わたしはそういうお人に「ばーかばーか!てめえなんかこっちから願い下げだい!」と言い渡すことをしたのでした。

どうしても敵わない相手に三下り判をつきつけてやった!!できねえもんはできねえっつーの。もうできないことを無理してやらなくていいんだ…。ああ気持ちがいい。

さて。
電話を終えてからは…
「おおー、わたしリーディングもうやらないんだー…」「どーすんだよ、やるしかないことやらないで」「できないもんはしょーがないじゃん、だってできないだもん」「あれ?リーディングしないってことは、つまり…」「あ、そっか」

「わたし、生きようとするのをやめたんだな」そういう結論にたどり着きました。

『ナニソレどうゆう思考回路!?』と思われるかもしれませんが、わたしにとってはそういうことになるのでした。

うまくお伝えできるかわかりませんが、わたしにとってまさみちさんのリーディングは…

本人にも何がどうなってるのかわからないくらいこんぐらがったわたしの状態を言い当てて解説してくれて、
さまざまな要因で動きづらくなっているわたしが自分の足で立てるように整えてくれて、
「生きていたくない」が座右の銘だったわたしに「ここからやり直して生き直す道・方法があるよ」と教え、その方法を伝授し続けてくれていた、そういうものだったので、

だからそれを途中で投げ出して「今度こそ本当にやめた」ということは「生きようとすることをあきらめた」のとおなじことだったのです。

ちなみにわたしは生きるのをあきらめても、いわゆる自殺行為はよっぽどの兼ね合いがないとしないと思います。
ただだらだら食べて寝てを繰りかえして死が訪れるまで時間が過ぎるのを待つ、そういう元の生活に戻るだけです。

ころりん、ころりん、おむすびころりん。
たびたび思い浮かぶのは、遠藤周作の『沈黙』という小説の登場人物、キチジローです。

小説『沈黙』についてはこちらを…↓
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E9%BB%99_(%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%91%A8%E4%BD%9C)

キリスト教の弾圧が厳しかった江戸時代では拷問などの圧力に屈して信仰を棄てることを「転び」と呼びました
中でもキチジローは特に気の弱い人間として描かれ、何度も逃げたり「転ん」だりしています。
わたしはそんなキチジローをとても身近に感じます。(わたしの場合は何の拷問も受けていない「転び」なのでキチジローに失礼かもしれませんが…)

そんなおむすびころりん・「転び」のわたしですが、まさみちさんと訣別したわずか2日後にはセッションの申し込みをしていました。

おやおや??
なにやってんだべわたし???

まさみちさんのセッションを申し込むということは、まさみちさんとのなにかしらのコミュニケーションを望んでいるということ…だと思います。

わたしはあまりにも無節操な翻りに呆れました。なんじゃっそらー…。離れるのも戻るのも、まさにおむすびころりん。

その時の感覚としては、「よくわからないけど動けるからそうした」というかんじでした。

「とにかくまさみちさんのセッションを受けたい」とか「まさみちさんに謝って一(いち)から出直したい」とか「まさみちさんにこのくるしい状態を何とかしてほしい」とか、そういった気持ちは感じられないのに、手が勝手に申し込みの手続きを進めている…、そういう状態だったので、

本人としては「??? なにやってんだわたし?」「あの三下り判宣言はなんだったんだべ???まだ二日しか経ってねえべさ…」でありまして、

をいをい…やべえな俺、
いくら何でもくるくるひるがえりまくりやろ。言葉の重み・なっしんぐ☆やないか…。

ま、あれだな。
申し込みしたからって参加するかはわかんないな。だってセッション受けたい気持ちがないもんさ。そうだ、わけわかんねえけど当日受けたくなかったらキャンセルすればいいや。(まさみちさんのセッションのお代金はわたしのお財布には高額でありますが、人生投げちゃってるのでキャンセル料がいくらだとかどーでもよくなっておりました)
そんな気持ちでいました。

そして、自分のしたことのわけもわからないまま申し込みはそのままに、思う存分これでもかーと乱れにみだれた暴食ひきこもり生活をして過ごしていました。

さて、セッションの日。
けっきょくわたしはまさみちさんとzoom画面越しに相対していました。

冒頭でまさみちさんから「今日はどうしたの?」というようなことを聞かれましたが、わたしは「………。わかりません」とぼそぼそ答えるだけでした。そこからセッションが始まりました。

セッションが終わってから、わたしはさっきまでできなかった動きが急にできるようになりました。

頭のかゆさにこれ以上我慢ができなくなる前にお風呂に入ったり、部屋に掃除機をかけたり、トイレ掃除をしたり…、それまで「このままじゃきもちわるいからできれば綺麗にしたいけど、動くのがしんどいからやらない」でいたことが、少しずつできるようになっていきました。
これまでに何回も体験してきたけれど、今回もばっちり「え、まじ??動けるようになった…!」状態になっていたのでした。

後日、まさみちさんから言われたことの中で印象に残った言葉があります。それは、

「よく戻ってきたね。なかなかできることじゃないよ」というものでした。

わたしは何を言われているのかわからず「???…」と呆けていました。

まさみちさんによると、訣別したあとで、それを撤回して戻ってくるということはなかなかできることではないよ、とのことでした。

たいていの人は、「どの面下げて会いに行けばいいのか」「そんなことできるか!」などの気持ちに従って、素直に出戻ることができないでいるそうです。
なので、それをやってのけたわたしはどうやらすごいらしいのです。

エエー??
わたし、なんかほめられた!!!
わたしってすごいんだ…。
(たんじゅんおバカ)

まあ、わたしの場合はあたまぜんぜんまわらない自暴自棄状態でしたので、「そんなはずかしいことできるかー!」などを思いつく余裕もなかったのかもしれません。
ほんとうに「うごけるようになったからうごいた」、それだけでした。

ちなみにまさみちさんは、わたしの電話での訣別宣言を聞いて「見落としていた何かがある」と思い、リーディングしてそれを見つけ、まさみちさんとわたしのあいだにあるもの(障壁のようなもの?)を整えて、解消されていたそうです。
その甲斐あって、わたしはなぜかまさみちさんのセッションを申し込むことができた(動けるから動いた)のです。(このあたりを「へえ~そうなんだ~」と思われるかどうかは、おまかせしますね)

ひとには自由意思があります。
なので、まさみちさんが相手を動けるように(またまさみちさんと関われるように)整えても、本人がまさみちさんと「関わりたくない」と望めば「関わらない」ことを選べます。

ただ、選べる状態にはなったので、望めばまさみちさんと再度関わることができる状態にはあるということです。
本人が望まなければ、まさみちさんと関わらずに生きていく自由がどのひとにもあるのです。

おなじように、わたしはまさみちさんと関わらないことを選ぶこともできましたが、動けるようになった時に身体がまさみちさんと関わることを選んで動いてくれて、わたしは(自分がしていることのわけがわからなかったのですが)それを止めることはしなかった、ただそれだけ…ということなのでした。

なんじゃっそらーな話ばかりになっていましたら、すみません。

こういう体験をしてわたしが思ったことは、

「初志貫徹」「有言実行」など、決めたことを最後までやり通すことはとても素晴らしいことですが、
時にはおむすびころりん、と自分にとって良いと気づいた瞬間そちらの方に、かんたんにころんと寝返ることもまた素晴らしい…ってことかな??

ということでした。

まあ、わたしの場合はおむすびころりんはお手のものなので(笑)、「最後までやり通す」をこれからひとつひとつやってゆくわけでありますが(°▽°)テヘ

そして、見える世界で起きていること見えない世界で起きていること
そのどちらをも同時に把握することができたら、いろんなことが明らかになってぜったいおもしろいことになるよなあ…と、わくわくしてきました。

ここまでお読み下さってありがとうございました!それではまた。



















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