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日々の雑感、覚書、望遠鏡を逆にして眺めたようなむかしの追憶等を気が向いた時に書き留めて…

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日々の雑感、覚書、望遠鏡を逆にして眺めたようなむかしの追憶等を気が向いた時に書き留めてみます。 猫もちまる/下町/60s,70sロック/ 左半身不随👩‍🦽

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だるま船

隅田川は、貨物輸送の動脈だった。動力がないだるま船が行き来していた。 積み荷は、建築資材の土砂である。木造の舟は山積みの荷を乗せ、何艘も綱で、繋がれる。 先頭には、その排気音からか、ポンポン蒸気と呼ばれていた小さな曳舟がもてるすべての力を出して、先導していた。どこに行ったのだろう。

    • 1975/04/13 日比谷野音でのアルバイト

      高校を卒業してしばらくして久しぶりに中学の友人から電話。野音のバイトがあるから来る?何かを聞かずに二つ返事で承諾した 。ただ、ジーズはダメジャケット着用とのこと。 当日午前中に野音に行き、友人の他にバイトと思われる数人。長髪のラフな格好のやや年上の人から業務は会場整理、時間スケジュールなどの説明の後、用意された弁当で食事、しばらくしてステージへ誘導。 3段ぐみぐらいPAのスピーカーの前を通るとスピーカーのコーンが前後に10センチ揺れ動き、すごい風圧を感じる ステージの

      • C. W.ニコルさんの話

        C W ニコルさんの話 クマは遡上してきた鮭を大量に取り、美味しくて栄養価が高い腹だけを食べ、残りは森に捨てる、それが木々の肥料となり、森は多くの生物に食糧や住処を提供する。 森林の栄養豊富な地下水が川に流れ込み、下流の魚の食糧となるプランクトンを育て、河口の海の漁獲量が増す。 この食糧連鎖を忘れてはならない。

        • がさ小屋

          下町では12月の声を聞く頃大きな通りの交差点の角に正月飾りを売る臨時の店ができた 3メートル四方の四隅に10メートルぐらいの長さの足場用の直径10cmほどの材木を立て、腰あたりの高さの覆を設け、前側には商品をならべるための板を が渡してあり、内側にはところ狭しと飾りものをかけてあった。多分鳶職人の冬季の仕事だったのであろう、なかにはパイプ椅子に店番が座り、 薬缶を乗せた石油ストーブで暖をとっていた。年が明け数日経つとそれらの店は取り払わて、姿を消す、ぽっかり空いた場所に

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        だるま船

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          下町の商店主

          コーヒー豆の店が近所にあった。ケースにはコロンビア、ブラジル、エチオピア、ブルーマウンテンひととおりそろっている端にはソフトブレンドが置いてある。たいていソフト200gをたのむのであるが、たまにブルーマウンテンなどたのむと「いやぁ、やっぱり、うちはソフトが一番のおすすめだよ」といわれて、ソフトになってしまう。深川八幡まつりの時期になると半纏を着て、気もそぞろ 「商売なんてやってらんねぇーよ」注文も聞かずにソフト200gを出す。 東銀座にナイルというインドカレーの名店がある。

          下町の商店主

          下町の職人

          子供のころに住んでいた下町、東京駅や銀座が徒歩圏内の地域には、多くの職人がすんでいた。 板金工場からはグラインダーで板金を切り、火花が散っているところやガスでトーチでの溶接作業を目にできた。 畳屋が表から見える作業場で長く太い針で肘をつけて畳表を縫い付ける様子も見ることができた。 大工は、台にのせた長い木材に鉋をかけて、透けれ見えるほど薄い鉋屑が歩道まで飛んでいた。また、ほぞ穴をあけるため鑿をトントン叩く音も聞こえた。 活版印刷屋や製本屋からは機械のバッタンバッタンす

          下町の職人

          日本語の敬語について

          § 1 日本語の敬語には尊敬語しかないとすれば、日本語学習者は助かるのではないか。 日本語の文献によると、「お〜になる」は 主語尊敬の敬語である。(1)の「先生」は主語であり、話者は、「先生」に対して、敬意をを表す。 (1)先生はお帰りになった。  § 2 主語とは、「自分」が文中で指す表現である。(3)で、「自分」が指すのは、主語の「先生」であり、「学生」でない. (3)先生は学生に自分の義務を説明した。 § 3「お〜する」は非主語尊敬の敬語である。次の(2)の「先

          日本語の敬語について

          メイスン神父のエッグノッグ

          学生時代の今頃、昼休みにキャンパスでメイスン神父に手を貸してくれないかと声をかけられて、お御堂の控え室に連れて行かれた。 神父は巨大な銅のボールに卵白を大きな泡立て器で大量に泡立てていて、これから アメリカの伝統的なクリスマスの飲み物、eggnogをつくるんだと言われた。 別のボールにとっておいた卵黄があり、それに砂糖2袋と生クリーム2パックを入れるように頼まれた。次に、それをあわ立てた卵白のボールに入れてくれ。神父は泡立て器でそれを混ぜた。神父は、混ぜ続け、その後、そこ

          メイスン神父のエッグノッグ

          ほっこり

          学生の頃、母校の勉強会の集まりで、地方の大学に職を得た30過ぎの先輩が久しぶりに参加して、終わってから、みなで、近くのとんかつ屋で食事を済まし、ちょっと飲みに出ようかとなり、当の先輩が、人に会いに行くと席を立ったが、なかなか戻ってこない。 「先に出て、後で連絡しようか」と思い始めたとき、いそいそと戻ってきた。綺麗なおねぇーさんとでもあってきたのかと問い詰め始めた時、「女性だけど、下宿のおばさんだよ。ちょっと話し込んでしまった。学部から院まで世話になったから、十年近く過ごした

          ほっこり

          ポン煎餅屋さん

          ポン煎餅屋さんが公園に時々きていた。リアカーにドラム缶を横に倒して乗せてあった。 前方の引き手側のドラム缶の蓋の下の方に薪をくべるための焚き口があり、ドラム缶の蓋の上には扇型の上下にうごく扇形ハンドルがあり、鋭角の部分あたりの上下に凹面と凸面の直径10センチぐらいの円盤が支柱でハンドルに溶接してあり、挟むとぴったりと重なり合うようにできていた。 ハンドルを下ろすと挟み込み圧力をくわえる仕組みであった。 円柱形の焼き釜の圧力をかけて、蓋を一気に開けて、つぶつぶのポン菓子を焼

          ポン煎餅屋さん

          スカイツリー建設地選定の理由

          スカイツリーの展望台から今の東京を眺めるアングルが、一九世紀初頭、鍬形蕙斎が江戸の鳥瞰図を初めて描いた時に選んだアングルとちょうど重なるということである。 https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5405 https://www.mapion.co.jp/m2/35.71005819,139.81073051,16 陣内秀信『水都』 東京

          スカイツリー建設地選定の理由

          昭和の町中華

          とくに何の特徴もない新興楼という町中華が子供の頃の家の近くにあった。壁際の水槽に中の鯉がときどき、ガラスに近づいてきて、顔が見える。 そこを引っ越すまで、その鯉は元気に泳いでいた。天寿をまっとうしたのであろうか。店内のお品書きには、麺類の部、御飯の部、一品料理と続く。一品料理の最も高額なのは、鯉の丸揚げ野菜あんかけと肉団子であり、注文が入ったところをみることはなかった。野菜炒めには、50円ぐらい高い肉入りのものとただの野菜炒めがあった。肉は当時、高価な食材であった。 餃子は

          昭和の町中華

          公園のおでん屋さん

          3時過ぎ、公園におでんの屋台が来ていた。小銭を握りしめた子供たちのおやつタイムが始まる。おじさん、おばさんとの会話を楽しみながら、「もう少し、待っててね、」子供たちは、鍋から湯気が上がるまで、寸暇を惜しむように遊びに公園にもどり、しばらくして、ふたたび、屋台の周りに戻ってくる。「おじさん、大根はやらないの。「大根は、下茹でしておかなければならなくて、手間がかかるから、できないんの。」仕事を終えた銭湯帰りの職人さんたちもおでんをつまみながら、おでん鍋にチロリで燗をつけた日本酒を

          公園のおでん屋さん

          昭和のこどもの仁義

          都心の小学校の多くは、隣接するように児童公園が設けられていた。そこは近くの小学生のいわば、領地である。 おなじところで、あそんでいるわけであるから、飽きがくる。 缶蹴りなどでは隠れる場所がきまってしまい遊びの面白みがなくなる。 遊具もほとんどかわることがないから、公園自体にあきてしまう。少年野球の試合などで、知り合いができた小学校の公園に遠征することになる。当然、そこの公園には、お客さんとして行くわけなので、そこで遊んでいるこどもの中のリーダーに目星をつけて、「あそんでも

          昭和のこどもの仁義

          きび団子屋さん

          小学生の頃、公園に自転車でリアカーを引いて、きび団子を売りに来ていたおじさんがいた。団子を売りながら、気さくに子供達との会話を楽しみ。子供達も、いつ来るのかと待ち遠しかった. きび団子は5本ぐらいで、20円だったと思う。おじさんはこの値段では、当時の小学生には毎日、買うことができないかもしれないので、5円の新商品を出した。蜜パンといい、食パンを三角形に切って、黒蜜をたっぷりかけ、その上にキナコ をまぶして串を刺したものである。考えた通り、小学生に評判でよく売れた。 大学生

          きび団子屋さん

          隅田川べりの倉庫

          隅田川の川べりにはビルの45階建の高さの倉庫が車道を隔てて、並んで建っていた。江戸時代には、大名の蔵屋敷だったという。大きな引き戸式の鉄製の扉があった。 私が住んでいた隅田川の西岸には、米や酒などの商品の倉であり、東岸には建築資材置き場であったという。 川の近くにГ型のクレーンが2本ぐらい距離を置いて設置されていた。鉄骨の塔の上部に操作室があり、水平部は360度回転できる。腕が伸びていた。 平日には岸に係留されたダルマ船の貨物をクレーンで引き上げ、大きなトラックの荷台に

          隅田川べりの倉庫