あるボンクラの就活

 

 就職先がようやく決まったのは、大学4年の11月だった。

 友人たちがつぎつぎに内定を得ていく中、気づけば秋は深まっていき、木枯らしが吹く季節となっていた。 

 とにかくボンクラで怠惰な学生だったので、まっとうな就職活動を何一つしていなかった。本気で就活に取り組む気になれなかったのは、その時点で4年で卒業できるかどうか、怪しい単位数しかとれていなかったことも理由であった。

 とはいえ、親からは「4年までしか学費は出さない」と言われている。何とかして、4月からの活路を見出さなければならなかった。

 追い詰められた気分で、大学の就職課に久しぶりに足を運んだ。数ヶ月前は人でごった返していたのに、掲示板の周りにはほとんど人影がない。まばらに貼り出された求人票を上から見ていくなかで、ある編集プロダクションの募集を見つけた。

 仕事の内容は、単行本や企業のパンフレットの編集のほかに、「所属する数名の外国人作家の著作権管理」とある。

 趣味らしい趣味といえば、古本を読むぐらいしかなかった自分は、この求人に目を留めた。今でいう、エージェント業務のようなことを行っているらしい。エコロジストで知られるその作家の本を、自分は中学生ぐらいのときに読んだことがあり、好感を抱いていた。

 さっそくコンビニで履歴書を買って、大急ぎで記入し、会社に届けることにした。神楽坂の雑居ビルに入っていたその「G」という会社は、社員数20名ほどの小さな編プロだった。

 対応に出てくれた男性も、奥で働く何人かの女性スタッフも、ジーンズにパーカーといったラフな格好をしており、「働くにしてもスーツは着たくないな」と思っていた自分には、合っているように感じた。何より、事務所に入ってすぐに、本のインクの匂いが部屋に立ち込めていることに気づいて、そのことが嬉しかった。

 採用試験は、「ル・コルビジェ」「柳宗理」「UNHCR」といったようなさまざまな人名・単語について、知っていることを書け、というシンプルなものだった。授業中に読みふけっていた古本で身につけた雑学知識が役立ち、なんとか試験にパスすることができた。

 自分以外には、同じ大学の学部から女性が一人、慶應のSFC出身の男性などが合格していた。後から聞くと、そんな時期の募集にも関わらず、それなりの倍率だったらしい。同期は5人いて、G社にとっては今後の飛躍をかけた、初めての大型新卒採用だったそうだ。

 ところが人生というやつは、そう簡単にうまくは行かない。

 2月になって、卒業には8単位足りないことがわかり、留年が決定したのだ。

 せっかく内定を出してくれたのに、申し訳が立たない。怒られることを覚悟して、Yさんという社長のところに謝りに行った。Yさんは当時50歳ほど、今の若い人は知らないと思うが、『あばれはっちゃく』の親父役をやっていた東野英心に似ている、浅黒い肌の恰幅のいい人だった。

 Yさんからは面接のときに、大学の先輩であること、学生時代はグリークラブに所属していたこと、アウトドアが好きで、所属作家とともに長野の山奥でキャンプしたりすることもあることなどを聞いていた。

 留年の報告を聞いたYさんは、ちょっと呆れた様子だったが、

「しょうがないな。5年生になれば、大学は週に一回行けばいいんだろ? それならうちにアルバイトで来なさい。社員と同じ仕事をさせて、卒業できたら改めて雇ってあげるよ」と太っ腹にも言ってくれた。

 このありがたい申し出を断る理由など、あろうはずがない。フルタイムでバイトすれば、月に15万円ほどは稼ぐことができる。自分は4月からの進路が決まったことに、胸をなでおろした。

 

 ところが、またしても人生というやつは、思い通りには行かない。

 私はせっかく入れてもらったその編プロに、まったく溶けこむことができなかった。

 直接の理由は、直属の上司となった30歳ほどの女性の編集者と、うまくコミュニケーションができなかったことだった。

 今でも十分とは言えないが、当時の私は、いちじるしく「社会性」というものが足りない若者だった。

 ファックスの文面ひとつ書くのにも、どういう文面にすればいいのかわからず、30分ぐらい迷ったあげく「『お世話になっております』と『いつもお世話様です』は、どちらが適切ですか?」と、上司のところに聞きに行くような仕事ぶりだった。

 加えてその女性上司も、こういうとなんだが、激情しやすいタイプで、取引先から無茶な依頼を受けたりすると、電話を切ってから怒って声を上げて泣いたりするような人だった。

 私は働き始めて1ヶ月も経たないうちに、社内で「使えない男」「話しにくい男」と見なされるようになった。3ヶ月も経つと、女性上司とは、目を合わせることすらできなくなった。叱責されるのが怖くて、足が震えてしまうのだ。

 どちらかといえば、まあ社交的なほうで、打たれ強い性格だと思っていた自分が、短期間でそんなふうになってしまったことが、自分でも信じられなかった。そして、そこからどう抜け出せばいいかも、わからなかった。

 夜、眠れなくなり、安ウィスキーを酩酊するまで飲んでから、気絶するように寝て、二日酔いの暗い気分で会社に行き、ほとんど誰とも話さず、与えられた作業をして、家に帰る、という日々が続いた。

 その上司とは一緒に、一度だけインタビューの仕事をともにしたことがある。それが載っているのがこちらの雑誌だ。


 高校生を対象に、「将来なりたい仕事について、今のうちから考えておこう」というとても素晴らしいコンセプトの雑誌だったのだが、残念ながら、この号のあとは出ていない。

 創刊号では、消防士やパティシエ、シェフといった仕事から、芸能人、お笑い芸人などのさまざまな職業の人に、その仕事の実際について聞いている。

 私はこの雑誌のなかで、当時、高校生に人気のあったファッション雑誌で読者モデルをしていた女性のインタビューをまとめた。

 どんな記事にしたか忘れてしまったが(何年か前に、引っ越しを機に捨ててしまった)、自分より4歳年下の女性が、希望に燃えて芸能界で活躍したいと語る内容をまとめながら、あまりの自分とのギャップに、なんとも言いようのない気分になったことを、ぼんやりと覚えている。

 

 それから18年が経った。

 結局、私は入社して半年経たずに、Yさんから「君は、こういう仕事ではなくて、公務員とかを目指したほうがいい」と言われて、クビになった。

 それで「これから自分は、もう一生、文章や本に関わる仕事をするなんて大それたことを考えず、ベルトコンベアで流れてくる歯磨き粉のチューブに、蓋をとりつけるような仕事をして一生を終えよう」と思った。

 そう決意したはずなのだが、紆余曲折を経て、いまはどうにか文章を書いて生計を立てている。基本的に、依頼主とは案件ベースの仕事なので、毎日、就職活動をしているようなものだな、と思う。

 私がインタビューしたモデルの女性は、その後、芸能界には進まなかったようである。

 雑誌の表紙を飾ったトップアイドルは、この18年の間に奇行で騒がれ、二度の結婚をし、さまざまな毀誉褒貶にあったが、今なおトップ女優として、活躍している。

 Yさんは、10年ほど前に、病気で亡くなった(G社に年賀状を出して、その返事で知った)。

 その2年ぐらい前に、一度だけ会った。

 当時働いていた会社で広告営業をしていたので、久しぶりにG社に行き、「求人広告を出しませんか?」と提案したら、「お前も大人になったなあ」と言ってくれた。そして、

「人生には、無駄なことは、何一つないんだよな」 と何度も言ってくれた。広告は出してくれなかったが、うれしかった。

 その後、G社はYさんのお兄さんが代表を勤めていたようだが、2年ほど前に倒産したようだ。

 この話に、教訓はない。

 

#同時日記 #就活

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