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私の人生は、私のもの

「ほら、こんな時にLotteがいないと困るのよ」

体調が良くない時、困っている時に手伝うと母はそう言う。一人暮らしの話をしてからというもの、何かにつけて聞くセリフだ。

その度に、「私はあなたの便利な道具じゃありません」と言いたくなるのをぐっと我慢する。もちろん、道具だと思って言っているわけじゃないことは知っている。それだけ母は、私が家を出ることを望んでいない。言葉には出さないが反対しているのだ。

うちの家族構成を先に話しておく。父、母、私と8歳の犬。父は、家事一般全くできない人である。器用なので日曜大工は得意だし、大抵のものは自分で作るし、直す。その気になればもちろん料理もできるだろう。ただ、しないだけなのだ。皿も洗わないし、料理も作らないし、洗濯物もたたまない。でもおそらく、ひとりになればそれなりにやっていくだろうと私は思っている。だから、母がもしも病気になったり体調をくずした時はきっと助けてくれるはずなのだ。でも、母はそうは思っていない。私がいなくなると、母はひとりですべてをこなさなくてはならないのだと思っている。

たしかに、私が家を出れば負担は増えるかもしれない。皿洗いも全部しなければいけなくなるし、洗濯物をたたむ人間も一人いなくなる。掃除機をかけるのも母だけの仕事になるだろう。でも、本来であればそれが当たり前なのではないか、と思う。

私が結婚していたとしたら、それは当たり前なのだ。家にいないことは当たり前だし、毎日一緒にごはんを食べないことも当たり前だし、皿を洗わないのも当たり前。私は新しい家庭をつくり、そこで母としての役割を担う。それが「本来あるはずだった姿」であり、今の状況は悪く言えば「普通ではない」。母はそこを勘違いしている。私は本来なら、ここにいないのだ。

「私の人生は、私のもの」。よく聞く言葉だが、今まで私はそう思ったことがなかった。私は母が望むように生きていればいいと思っていた。でも、本当にそうだろうか。このままずっと母の希望にそうように生きて、そして母がいつかいなくなったら。その時私はどうするのだろう。この歳になって、私はようやくそこに気がついた。事故や病気の場合は例外だが、このまま健康に生きていくことになれば母は私より先にこの世を去るだろう。そうしたら、私はひとりで生きていかなければならない(父のことは今はおいておくとして)。ひとりになった時、私に何が残っているだろう。一緒に悲しんでくれる伴侶もいない。もちろん子もいない。何もないのではないだろうか。私の人生とは何なのか。ひとりになった瞬間、空っぽになるのだ。

それはとても怖いことだ。それこそ、母の後を追うしかなくなる。でも母はもちろんそんなことを望んではいない。ひとりで強く生きていってほしいというのだ。…随分勝手な話じゃないだろうか。いる間はひとりで生きていくことを反対するのに、いなくなったらひとりで生きていけと言う。私は何のために生きているのだろう。母のために生きているのか。誰の人生なのか。

もうすぐ生まれて40年経つが、ここにきてやっと私の「反抗期」が来たのではないかと思う。今こそ反旗を翻す時。私は「私の人生」を歩き出すのだ。その一歩を踏み出すのだ。誰のためでもなく、私のために生きるのだ。

私にも、その権利はあるはずなのだから。







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