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1月27日はモーツァルトの誕生日

1756年1月27日、モーツァルト生まれる。

モーツァルト関連の本はたくさんあるが、自分が最近読んだものの中では《モーツァルトの最後の四年間(クリストフ・ヴォルフ著)がかなり面白かった。

特に自分的にはモーツァルトとバッハとのつながり、という側面がやはり興味あるところなので、以下、かなり以前になるが、連ツイしたもの ↓

①《モーツァルト最後の四年》byクリストフ・ヴォルフ、を読んでいる。1789年に旅行でライプツィヒを訪れ、バッハが活躍したあの聖トーマス教会でオルガンコンサートを行い「バッハが死から蘇ったようだ」と絶賛を受ける。即興演奏の中に「ルターのコラール《イエス、わが避けどころよ》もそこに含まれていた」とある。

②コラールの《わが避けどころよ》とは《神はわがやぐら》で間違いないだろう。

③《神はわがやぐら》はバッハが教会カンタータの名曲80番で使ったし、メンデルスゾーンが交響曲5番《宗教改革》で使った名コラール。そうだとすると、バッハとモーツァルトとメンデルスゾーンが結ばれて興味深いこと。

④1789年のモーツァルトの2回めの公開演奏会はゲヴァントハウスで開催されたとのこと。コンサートのプログラムが残っていて、最後の曲が交響曲となっているが手書きで「C」(=ハ長調)とあるらしい。著者のヴォルフは、ハ長調だからつまり41番《ジュピター》が演奏されたのだろうと推測している。4楽章の壮大なフーガのフィナーレがライプツィヒのバッハの関係者や愛好家の前で披露されたとすると、想像するだけで鳥肌がたつような。


⑤ちなみに、よくモーツァルトとバッハの関係で語られるエピソード、モテットBWV225の生演奏を聴いてモーツァルトが「ここには学ぶべき何かがある」と雄叫びをあげた、というのもこの旅行の時。


⑥この旅行でベルリンでは、メンデルスゾーンのおばあちゃんの妹にあたるザーラ・レヴィ(バッハの息子の弟子でもある)にも会って、彼女のサロンで演奏もしたのでは、と書かれているが、これは残念ながらあくまでも推測でしかないようだ。
 著者のヴォルフの推測の根拠は、ザーラ・レヴィの姉の持ち家にモーツァルトが住んでいた時期があること(1781年)、1784年のモーツァルトの私的な演奏会の予約リストに名前を連ねていること(つまりパトロンの一人?)など。ザーラも当然姉の家に出入りしていただろうから、モーツァルトとも親交があったかもしれない、と。ただ、やはり直接的な証拠があるわけではなく、あくまでも推測でしかない。
興味深く、そうだったら面白いと思わせる話ではあるけど^^;

⑦ただ、バッハ、モーツァルト、メンデルスゾーンなどの間で文章の形では残っていないものの、いろいろな関係性、直接的なものや間接的なものも含めて多彩なつながり、影響などは想像以上にあったんじゃないかな、と思われてくれる。

①で、コラールを使った即興演奏のことにふれたが、後年メンデルスゾーンもオルガンコンサートでコラール(いわゆるマタイの受難コラール)を使った即興演奏をした(加えてバッハ音型も組み込んだ手の込んだものだったらしいが)ということをシューマンが書き残している。

コラールを使ったアドリブというのは当時の演奏家はよくやっていたのかもしれない。




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