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「少なくとも、誰かが…」と自分の現在地のこと

花の写真コンテストに入選しました。

数か月前にふと見つけて、テーマが「花」で提出形式がデータだった(手間がかからず簡単)ので応募してみた人生で初めてのフォトコンです。規模とか、それにどんな価値が、とかそういうことは置いといて、とても嬉しい出来事でした。

Twitter…今はXか…にも写真を投稿していたのですが、どうも雰囲気が合わなくなってきて休止しています。Instagramも試してはみたけれどやっぱり合わなくてアカウント削除。
こうしてメインストリームから外れていくのだなぁと思ったものの、以前から波に乗れていたわけでもないので平常運転でした。

ところで、僕は15〜21歳くらいまで音楽に結構浸った生活をしていました。昼夜を問わずギターを弾き続けて、街で路上ライブをしたり、ライブハウスで演奏したり。

一時期、先輩と組んでいたバンドで、とあるレコーディングエンジニアの方が声をかけてくださりちゃんとしたレコーディングスタジオで無料でCDを作ってもらったりもしました。
先輩達は喜んですごい熱量で(有名になるための一歩として)レコーディングに取り組んでいました。僕はというと自分が楽器も歌も上手くない自覚もありましたし、やりたい音楽とは少し違うというのもあり心血を注ぎこめず、結局その熱量差からバンドを辞めました。(当時一緒に組んでいた先輩の一人は今は作曲家としてアニメやアイドルに楽曲提供をしています。)

バンドは辞めたものの、その後も音楽は一人で細々と発表の場もなく続けていました。
でも、やっぱりなにかを表現したくて、その表現したものを誰かに知ってもらいたいという欲望は無視できませんでした。いろいろな配信アプリで音源を投稿しては、ごく一部の刺さる人に聞いてもらって満足していました。

そうこうしているうちに写真にのめり込みはじめました。
音楽のことを振り返ってみると、今やっている写真に対してもどこか似ている志向があることに気付きました。
有名になりたいとかではなくて、音楽なり写真なりの手段を使って自分のなかにあるなにかを表現したい、そしてその表現したものを誰かに見てもらいたいということなのだろうと。
鑑賞者がいなければ、というか自分一人だけになればそれはその表現の世界が内に閉じ籠もるというだけなのだと思います。(なんて暗いのでしょう笑)
本当は、「表現している」なんてことを自分程度が言っていいのだろうかと思っているところもありますが、今はあえてそう言ってしまいます。

最近、SNSで目にする情報が「バズるためには」とか「お金やインプレッションをどう稼ぐか」みたいなことが多くなってきて嫌になっていたんです。でもたくさん見てもらって数字をたくさん手にするという意味ではその方向性は正しくて、なぜそれを嫌だと感じるのか疑問に思い、自分の現在地の確認と記録をしておきたくなって今回の記事は書きました。

このようなスタンスなので、いいねの数もフォロワーさんもいつまでたっても増えません。そのことに悩んだ時期もありましたが、それを目指してしていないのだから当然だったのです。

でも、こんなでも嬉しくありがたいことはあるもので。僕の写真を好きだと言ってくださるnoteで知り合った方に写真のデータをお送りしたら、それをプリントして額に入れて部屋に飾ってくださったという出来事が最近ありました。もう…めちゃくちゃ嬉しかった。
あまり言ってしまうとその人の重荷になるかもしれないのでこのくらいにしておきますけれど。

今後フォトコンの応募に力を入れるかどうかはわかりませんが、「少なくとも、誰かは自分の写真を良いと思ってくれた人がいる」くらいの温度感が心地よくて嬉しいです。きっとそのくらいが自分には合っている。
猛者がひしめき合うような流れには乗れないけれど、こんなスタンスで表現をする人間が居てもいいよね…というようなことを今は思っています。