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負けず嫌いな自分からの解放

私の学生時代を一言で表すと、とにかく負けず嫌いであった。

「優しい」「大人っぽい」といわれることが多かった小学生時代。本心では、勉強で他の人に負けたくないという気持ちがものすごく強かった。

「今日は見たいテレビがあるから帰るね!」

いつもだったら、放課後の校庭で日が暮れるまで遊んでいたのに、テスト前になると遊びに加わらずに勉強にひた走った。テレビを見るとウソまでついて。

とくに高学年になると、仲がいい子が成績を上げてきて脅威に感じ、すごく意識していたことを記憶している。

「テストで100点は、冨田だ!」
と言われるのが嬉しかった。

自己肯定感が上がる感じがして、正直に言うと優越感に浸っていた。
(すいません、嫌なヤツですね)
私は勉強のできる自分が、アイデンティティだったのです。

なぜ、こんなに勉強に執着したかというと、私の姉が優秀だったから。

姉に負けたくない気持ち。憧れる気持ち。
母に認められたい願い。
自分には得意なものがあると自信をつけたかった想い。

いろんな感情が交錯して、勉強に駆り立てられた。その経験のおかげで、「勉強=楽しい」とインプットされて今がある。こうやって大人になった今でも学ぶことにハードルを感じないのは、負けず嫌いの功績だろう。小さい頃の私に大感謝なのだ。

その後、公立中学校に入学。
中学生でも順調に成績を伸ばして、高校入試は県内でも偏差値の高い場所を目標にした。

しかし、高校に入ったら、当然のごとく成績は中の下。いや、下の部類だろうか。

県内のトップクラスの人たちが集まるのだから、当たり前といえば当たり前。負けず嫌いの私が予習、復習、テスト勉強をしたって、バケモノ級の頭のいい人たちに叶うはずもなかった。

それでも、私を救ってくれたことは、成績の順位で人を判断するような子が周りにいなかったこと。

私という存在を認めてくれて、アドバイスしてくれたり、私という人間の良さを客観的に伝えてくれたりした。そんな子たちが友達だったから、腐らずに(多少落ち込んだ時期もあったけど)前を向けた。

それぞれの志望校や入学の動機も異なるので、お互いに鼓舞し合えたのも良かったところ。

人と比べて、優秀でいようとする負けず嫌いの自分から、少しずつ周りを認めて、深く自分と会話することが増えた時期だった。

負けず嫌いでいると、人と比べた結果で物事を判断することになるので、結果を外部に託すことになる。結果が判断基準になると、自分の頑張りや過程は蔑ろにされてしまう。

どんなに頑張っても結果が悪かったら認められないのは、もったいない。そんなことをいつからか思うに至り、人との比較から、自分への深度が判断基準に書き換わった。

もちろん、思いグセはすぐに直らずに、できない自分を卑下したり、周りよりできると浮足だつところは残った。

それも自分が生きた証。

私もまだまだ成長できるなと思って、心地がいい方にシフトしている。

最近は、6歳の娘も周りの声に敏感になってきた。年中の9月末に転園したときは、友達からちやほやされたのに、年長ではそれがなくて思うところがあるようだ。

「真ん中組のときは人気者だったのに、今は人気じゃないの。でも、折り紙のコマを作れるのは私だけだから、作ってと言われることもある。」

そんなことをポツリと言った。

「人気者を目指さなくてもいい」
「何かできるから特別なわけではない」
「あなたはそのままで最高の存在だよ」

そんな言葉をかけ続けたい。

娘に伝えているようで、自分に言い聞かせている。

私だからできることがある。
私を必要としてくれる人がいる。

だから、勝ち負けを手放して、今日も楽しいことはないかとワクワクしながら過ごしている。

そんな自分でいられることに幸せを感じてる。

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