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ときには呆れるほどの決断力を

たまには、えいって決めてもいいんじゃないかな。
小さなことでも大きなことでも。
怖いけど、決めずに経験しなかったらその恐怖は残ったままなんだ。
そして、やると決めるのも、やめないと決めるのも、決めないことを決めるのも、結局は決断なのだ。

私は自分のことを優柔不断だと思っている。
石橋は必ず叩く。
叩いて叩いて、壊れるまで叩くのは怖いから、壊れる前に叩くのをやめる。
けれど、今度は叩いてしまったから強度が弱くなってしまって渡った瞬間に壊れるのではないかと思って、結局渡れなくなるタイプ。

怖い。
間違うことも失敗することも嫌だし、責任を負うのも嫌だ。
でも、結局決められなかった責任を負うのも自分。
その責めの気持ちってめちゃくちゃ重たい。
誰に分けることもできない。
それだったらせめて、「決めなかった」という決断にすればいい。
消極的な選択をすることが悪いのではなくて、自分で決めきれないことの重荷のほうがよっぽど重たいのだから。

そういえば、Skillmeという在宅ワークの講座に飛び込んだときもすごく悩んだ。
そもそも在宅ワークのための講座が私に必要なのか、決して安くない受講費を回収できるのか、ついていけるのか、やり遂げることができるのか。
やらない理由(つまり言い訳)は具体的にいくらでも思いつく。
それでも、やらない決断をするよりやる決断をするほうが気分がよくなる予感がした。

限定販売の物を逃したときは、何で早く行動に移さなかったんだろうと後悔する。
それが例えコンビニの商品だとしても。
また自分は決めきれなかった、と悔やむ。
その「また」と思う気持ちが自分を萎縮させる。

何でもかんでもやりたいことをやりたい、というわけではない。
決めきれなかったことは時間のせい、誰かのせいではない。
「決める」「決めない」「やる」「やらない」の自由を私たちは持っていて、それを行使しないことが自分を苦しめる。
だから、決めよう、自分のために。
そしてその決断を大事にしよう。

ときには呆れるほどの決断力を。
呆れる程早く決めることがあってもいいし、呆れるほど長考した末にやらないことに決めてもいいし、呆れるほど意味のないことをやってもいいし、呆れるほどのらりくらりと避けていってもいいのだ。
それがあなたの決断ならば。

石橋が壊れるまで叩くならそれでもいい。
どうすれば自分の気が済むのか。
どうしたらスッキリできるのか。
迷うなら迷うと決める。
それが私の決断ならば。

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