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日記らしい日記?

今日は、stand.fmを収録したことをよいことに、noteの存在をうっかり忘れそうになってた。
でも、忘れてなかった。
忘れてもよかったのに、忘れきれないところがまだまだ私らしい。

ということで、今日はいかにもな日記を書いてみようと思う。

午前中は「そらぱれ」の講座に子どもと参加。
今日は昨日とは違って、うちの子には発言の一切を公にすることをNGにされてしまった。
そもそも参加前から発表する気はさらさらなく、チャットに書き込むのも拒否。
チャットくらいいいじゃない、と思うんだけどそれすらもダメだった。
でも、参加できただけでもいいか。

お昼からはまた別の習い事へ。
ちょうど誰もが通る難関なポイントに差し掛かっていることもあって、こればっかりは練習あるのみなんだよな。
でも、いつもとは違うコーチでちょっと新鮮だったかな。

そして、私は夕方に一人で散歩に出た。
往路はうめちゃんのスタエフを聞きながら。
とても共感できることが多くて、ふむふむと頷きながら歩く。
私はこの人の元だから、「そらぱれ」に子どもを預けているのだと思う。
親が信頼する人かどうかは子どもにとっては重要な判断基準であって、極力態度や言葉に出さないように努めていたとしたって、私が人に対してどう思ってどう判断しているかは子どもに無意識のうちに影響してしまっている。
親は責任重大だな。

それから、何となくスタエフの収録を。
やっぱり家から出てしまったほうが喋れるのだよな。
まとまりのない話、とりとめのない話だけど、noteに書くかスタエフで話すか、脳内で言葉を渋滞させたままにしないように、心がけている。
それにしても夕方って想像よりも散歩している人が多い。
もう少しメジャーではない散歩道を探さないと、収録が難しいかも。


こういうのが一般的な日記なのかな。
少なくとも子どもが受けた授業では、時系列にやったことと思ったことを書きましょう、と習ったみたい。
相手に分かりやすいように伝えるために、らしいけど、こんな日記って一体何のため?
時系列で出来事を並べて大雑把に少し感情を乗せても面白くない。
もっと一瞬一瞬の心の動きとか、頭の中から消えて無くならない残像とかを書き留めておいたほうが面白いのに。
そもそも日記って誰かのために書くものじゃないよね、と日記の発表参観を見に行った私は思うのだ。
少なくとも今の私は自分のために書いていて、noteというプラットフォームを使うのは、書き続けるためであって、誰かに届けることは副次的なことでしかない。
だから今の私のしていることは日記みたいなものかな、と思っているのだけど。

誰かのために分かりやすく表現することと、日記を書くことは学びとして両立しにくいと思うのは私だけかな。

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