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オレンジに透けている









5月28日(土)

 堂々と晴れている。高校の体育祭で見た応援団長を思い出すくらい晴れている。ただちに石を迎えに行かなければならない。いや、出迎えというよりも捜索といった方がいいのか、まだ分からないが、昨日の土砂降りで完全に水の中にいた石たちがあの場所から動かなかったとは考えにくい。もし流されていたとしたら。もう一度会うことは。あの日した約束は。それ以上の言葉は飲み込んで、まずは多摩川に向かうことにした。

 立川駅南口から多摩川までの道のりはなんのてらいもない直線。直線を歩いている私に、横殴りの日差しが降り注いでいる。最高気温は26度になるという予報は間違いがないようで、私は日傘を常備することを決意した。容赦ない日光に耐えかねていると、石と別れた河原が近づいてきた。昨日の大雨はあとかたもなく、健康的な石たちが日に照らされている。昨日の景色が信じられないくらいに、河原はいつも通りだった。私が約束した石がいてくれさえしたら、それはもう完璧にいつも通りだというのに。ただそこに待っている石に会いにいくことが、今はこんなにも遠く感じる(晴れた天気のせいで希望がわきおこるのも億劫だった)。本当に、なんでこんなにいい天気なのだろう。



 場所は覚えている。わたしたちがもう一回会うための(会うためだけの)場所。そこはコンクリートの階段を降りて河原の手前側、とても明るい色をした草たちの手前、他の石よりも一回りおおきい石たちが集まってる所があって、そこで私と石は別れた。絶対にまた会えると思ったから、挨拶は軽く済ませた。


















 あった。



 お皿みたいな石、きれいに欠けている石、縞模様の石、全部そこにあった(あってくれた、私を待っていてくれていた)。見つけたのではなく、本当にばったり会った感じで、さも当然のように(道の奥から手を振るように)、私たちは再会した。

 石は意外と重かったようで、初めに置いた場所から移動していなかった。だからその場所に行ったらすぐに分かった。迷いはなく、視界に入った瞬間に分かる。視点を動かして探す時間はほぼなかったように思う。視点は最初からそこにあったように、石を捉えて離さない。あとは私の脳みそが気づいて、私の心が追いつけばいいだけ。その瞬きにも近い時間を、石は静かに待っていた(まっすぐにこちらを見据えて)。考えてみたら当たり前のことだった。交わした約束が、ただ守られただけのことだった。

 他の石たちとも無事に再会できた。緑青のふたつは体が半分ほど土に埋もれていたが、見つかった(雨で流された泥が被さってきたのだろうか?いずれにせよ見つけられて良かったし、驚いた)。不思議だったのは、その場所に行った(入った)瞬間に、たとえ石の姿が目に入っていなくても直感的に分かることだった。ここにいる、と体のどの器官で感じたのか定かでない感覚がして、その数秒後に石に気づく。気配とでも言えば分かりやすいのだろうが、それとはまた違った、もっと希望に満ちた感触。一つ言葉を選ぶとするなら、”信頼”というのがもっとも近いような気がしている。








5月30日(月)

 最高気温は28度らしく、もう本当にどういうつもりなのか分からないが今日の私は日傘を指しているのでなんとか耐え、といったところ。あらゆる金属に日光が反射して街全体がギラギラと揺れていて多摩川までの道のりがいつもより長く感じる。
 今日は送り迎えでいうところの”送り”のパートなので(今更ですが、送り迎えって普通一日で行うものですよね、ええ、分かっています。言い訳をするつもりは毛頭ありませんが、分かっているということだけ伝えさせてください)、さっさと石を置いてアイスを食べながら帰ろう。あれだけの再会を果たした後にここまで薄情になれるのだから、夏の暑さとは本当に恐ろしい。 




 石との別れに問題は一つもなかった。何にも邪魔されることなくそれぞれの場所に石を置いていき私たちはそれぞれの場所へ戻る。私は人間で、彼らは石だから。お互いの場所を行ったり来たりしても、私の場所が彼らの場所になることはないし、逆もまた然りなわけで、そういう孤独をなかったことには絶対にしないと決めた上で、お互いの場所を行ったり来たりしている。

 帰る時に踏んだ石の感触が、妙に足裏に残っている。私が置いた石ではないことは確実なのだが、なぜかとても悪いことをした感触だった。ザリザリ、ガラガラというばちあたりな音と共に小さい背中を踏みつけにした。私が石のことを好きになったからだろうか?この不安は。






5月31日(火)

 曇っているから気分が晴れないという単純な精神構造の自分に腹を立てながら多摩川までの道のりを歩いていると、通る車が白色ばかりで納得がいかなかった。ロイヤルホストというファミレスを横目に、ここに行くことは一生無いのだろうかとか考えて、曇りの日特有の首をなでるような湿気を気にしないように努めるが、気になる。雨上がりのアスファルトは白けきった空を断片的に反射している。橋まで辿り着く。コンクリートでできた壁の上に金属製の薄い板が風を遮るように取り付けられていて、なんとなくその姿が残虐な道具に見えた。イワシのエラのようでもあるし大根おろしを作るやつのようでもあるなどとしっくりくる例えを探していると、橋を渡りきった。昨日気づいたが、この橋の名前は「たっぴばし」というらしい。ゆかいな名前で羨ましい。

 石を迎えに河原に降りるとまだ水溜りが残っていて、私が置いた石も体の半分を濡らしていた。手が多少粉っぽくなったがしょうがないこととした(めちゃくちゃに雨に降られるよりも指先だけが泥に触れることの方が嫌な感じがするのはなぜだろうか。冷静に考えればそんなことはないのに)。濡れた石は以前とは違った表情で、別人のように綺麗になってるものもあった。これは当たり前のことだ。








6月1日(水)

 カンカンに晴れているのでオレンジ色の服を着て多摩川に向かっている。人生がどうにかいい方向に向かわないだろうかと願いながら(運命に頼み込むようにして)歩いている。しかしこの道をまっすぐ行ってもあるのは海ではなく河原で、待っているのは幸せではなく石なので、私は日傘をさして熱中症に備えている。石を迎えに行くのは、おそらく今日が最後になる。




 河原に向かう道はいつもと同じだが、今になってすこしづつ新しい表情を見せ始めているから、もう遅いよと言いたくなるのだがよく考えたら遅いのは私の方で、雨に濡れるとどす黒くなるモノレールを支える柱のこととか、通りに面した飲食店の看板のフォントがヨーロピアンシュガーコーンと全く同じこととか、Suicaが使える自販機は左側の道にしかないこととか、多摩川の水は意外と透き通ってることとか、そういうことに気づいていたことも、こうやって文章にしないと気づけないくらいに、私は遅すぎた。河原が少しづつ近づいてきて、私は橋の中腹で立ち止まってスマホを取り出す。今日は風が吹いているから、川の水面に反射する太陽の光がこまかくほどけていて、その様子を動画に撮りたいと思ったから。もっとこういう風に立ち止まっておけば良かったと思うのはいささか贅沢すぎるだろうか。私は石を送り迎えしていただけだ。橋の奥まで着くと、地面にラムネを包むくらいの大きさのセロファンが落ちていた。オレンジ色に透けている。私が着ていた服も同じ色だったので写真を撮った。拾い上げることはしなかったが、私がもし石を持っていなかったら(石と約束をしていなかったら)、もしかしたらがあったかもしれない。石を持っているときは、やたらとそういうものが目に付く(選んだ途端に、選ばなかった方に目がいく。スプライトを選んだのは別に間違いではなかったと思うのに)。

 石はいつもより少しだけ分かりにくいところに置いた。いつもの所に置くとあまりにも簡単に見つけてしまいそうだった。できれば永遠に見つかって欲しくなかったのだが、それはどうにも不可能なので(無理矢理にいなくなってもらうこともしたくなかったので)、少しだけ離れたところに置いて、どうか忘れますようにとか思いながら、目を離す。でもすぐに見つけてしまって、少し笑った。
 写真はなんとなく撮らなかった。立川駅に向かう途中で喉が渇いたので、ポカリが売っている自販機を探しながら考え事をしていた。自分の悲しみが大したものではないことについて。よく考えれば自分と石にはなんの関係もなく、石は石以上でもなんでもなく私がしていたことは、何も生み出していないのではないか。ここ五日間ほど特に何も起こっていなくて、そもそもこの送り迎えという行為にはなんの必然性もなく、自分の寂しさと持て余した時間を埋めるための運動にすぎない。自分の中で適当に始めたことを自分の中で完結させているだけなのでは。という所まで考えて馬鹿馬鹿しくなってやめた。いまさら取ってつけたような冷静さを取り戻してもどうしようもないし(私と石との別れと再会はすでに行われてしまっている)、そうやって予防線を張るのもしょうもないと思ったし、ポカリがある自販機を見つけたし。歩いていると、ポカリが手の中で揺れて首の座ってない赤ちゃんみたいだった。











































6月3日(金)

 一日空いて、また私は多摩川に向かっている。空は晴れていて薄く雲がかかっている。昨日よりはちょっと涼しいのかもしれないが、大差ない。今日、私は石を迎えるわけではない。ただ会いにいく。石を見て、帰ることにした。写真は撮らないことにした。
 河原は本当にまったくのいつも通りで、当たり前のことだが、自分がここに来るとか来ないとかは一切関係ないのだなと思った。それは多分、石たちも同じで、今日を含めて七日間この河原に足を運んだが、私とこの場所にはなんの関係も結ばれることはなかった。徒労感のある結論だがどうしようもない。私はただ石を運んでいただけで、それは誰も知ったこっちゃないので、そこには初めから何かが生まれる余地などなかったのだと思う。石と私が移動していただけの日々に何か価値を付けようとは全くもって思わない。これは私の個人的な行為であり、個人的に完結するほかないからだ(だから、本当のところは、私以外には何も分からないのだろう)。そして、私が石と再会したことで(もう二度と会わないことで)、その完結はとても大事にしまい込まれる。
 石に会うことは拍子抜けするくらいに簡単なことだったが、以前よりも時間がかかったことも事実だった。明確な差は”探している時間”があったことで、そこでの私と石には一方的な関係が横たわるのみであった。いや、もはや私と石ではなく、石を探す私ただ一人だけがそこに(日差しのおかげで白みを帯びた河原に)あった。石を見つけた時、石が以前よりも周りに馴染んでいる(私の目に馴染んで見えた)ことにまず驚いて、その後少し悲しくなってそのまた少し後に安堵した。どうにもならなかったこと、それは私と石の関係の結ばれなさ(それぞれの場所に帰っていく、その引力に逆らえないこと)、そして、どうにもならないでいてくれたこと、それは私が七日間石に触れられたこと(それについて何も残らないこと)。何かが変わらなくてよかったと思う。そのおかげで、私は精一杯大切にできる気がする。私しか知らないこれら(彼ら)のことについて。













6月6日(月)

 どうも今日から梅雨に入ったようで、私は石のことを思い出していた。


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