ひからびる前に見た

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◯天国について想像することがある。自分が死ぬまでのこと、死んだ後のことを想像するのが、そのイカの趣味だった。趣味はそれだけで、それ以外のことは生きるために最低限必要な食事と排泄、そして睡眠。そのイカは変わりものだったから、縦になって寝た。マッコウクジラと同じように縦になって寝た。

◯イカには家族が一人いた。同じような色と、同じような模様をしていた。その模様はイソギンチャクのようだとよく他の生き物に言われた。イカはイソギンチャクを見たことがなかったので、馬鹿にされていることに気づかなかった。イカの家族はそれをただ見ていた。イカの家族はとても静かで、イカはその声を聞いたことがなかった。でも、ごくたまに、イカと一緒に体を揺らしてくれた。イカはその時間が睡眠と同じくらい好きだった。

◯イカが想像する天国は大きく分けてふたつだった。ひとつは、今いる場所と変わらない。あたたかい水と、ゆるい草が生えたところ。でも生き物は少なくて、カメとクジラしかいない。カメとクジラは長生きだから、天国に来るぐらいのやつらはとても大きいのだろう。そんな想像をしていた。もうひとつは、まだ見たことがないところ。イソギンチャクの群れの真ん中。日に当たった時の海藻のように、ところどころが光っていて、その光が連なると大きな白波のように見える。イソギンチャクはおしゃべりだから、イカはいつも聞き役にまわる。眠る時間はすこし減るけど、退屈はしない。そんな想像をしていた。想像で留めているのは、話そうとするとうまく想像できなくなるから。でも、イカの家族はそれを分かってくれている、と、イカは信じていた。

◯イカは朝と夜に食事を摂った。大抵は草のようなものを食むだけだったが、いつもより元気な時は小さい魚を捕まえて食べた。イカの鋭い歯で魚を噛むと、骨が割れる音が聞こえる。その音がイカは嫌いだった。だから食事の時は耳を塞ぐのだが、それがかえって音を聞こえやすくしてしまっていることに、イカは気づいていない。最近は骨の少ない魚を選んで食べるようになった。

◯深い青の中に星のように光るホタルイカの群れたち。その中の一匹を、イカは愛していた。そのホタルイカは周りよりも少しだけ光が小さい代わりに、少しだけ長く光っていた。そして、その光は微かに震えていた。イカはそれを見た時のことを未だに覚えている。自分にしか見えていないと思った。また、自分のことは見えていないと思った。その光が消えて、灯り、また消えるのをぬるっとした目で捉えて離さなかった。自分がイカであることを忘れられるようだった、まるで波の一部になったかのように、心地良い時間だった。そのホタルイカは、3ヶ月前に死んだ。

◯イカが初めて天国の想像をしたのは、生まれて一年がたった頃だった。最初に思いついたのは綺麗な音がする場所。水が運ばれていく時の、大きすぎて薄暗い音じゃなく、トビウオが水面に飛び出す時のような、軽やかな音。それが遠くに聞こえていて欲しい。イカは自分が泳ぐ時の音が嫌いだったので、できる限り泳ぐ必要がない場所がよかった。二番目に想像したのはそういう場所。水の流れも、大きな魚も、空腹も、なにもかも無くなった場所。そこでずうっと上を向いて寝る想像をした。それから、たくさんの想像をした。いろんな天国を想像した。それはいつも静かな場所だった。

◯イカが最後に天国の想像をしたのは3日前だった。その頃は想像の頻度がかなり落ち込んでいた。イカにその自覚は無かったが、天国について興味をなくし始めていたのだ。そこはこの海のどこよりも暗い場所だった。真夏の影よりも、ウツボの口よりも、ずっとずっと暗い、暗すぎて影すらできないような場所。イカにとって暗いことは恐怖ではなかった。イカが怖いのはクジラたちが奏でる不思議な音色だった。背骨の内側をゆっくりとなぞられるような、母親のような声。耳を塞いでも体全体で感じ取ってしまうその声が、イカは大嫌いだった。だから、イカが想像する天国には声を出さないクジラしかいない。

◯イカは太陽が好きだった。正確には太陽の光が好きだった。釣り人たちが垂らす透明な糸はその光をきらきらと反射してみせた。いつからか、イソギンチャクの美しさをそこに見るようになった。見たことのないイソギンチャクを想像するには何かきっかけが必要だったのだ。

◯冷たかった。イカの中の母親の記憶である。母親が眠った顔はなんだか見ていられなくて、少し目を離した隙に母親の体は波に流されていった。遠くにいった母親の死体は泳いでいる魚よりは重たそうに流れていった。ただ、そのくらいのスピードで泳ぐ魚もいない訳じゃないので、すぐにそれらと見分けがつかなくなった。時々体がひっくり返って、白いお腹が太陽を反射する様はちょっとだけ綺麗だと思った。釣り糸と母のお腹を、記憶の中で見比べてみる。やっぱり釣り糸には敵わなかった。母親の死体が見えなくなってしばらくたった後、イカは初めて自分の手で食事を摂った。

◯母親のことを思い出すことは、もうほとんど無い。自分でそうしている訳ではなくて、ただ忘れているのだ。母親の声を思い出そうとすると、クジラの鳴き声が上から覆い被さってくる。母親のお腹よりも、ホタルイカのお腹の方が美しいと思っている。ただ、いまだに思い出すのは、見えなくなる一瞬前の母親の死体。薄れた記憶ではそれが母親かどうかすら判然としない。釣り人が捨てていったビニール袋のように軽々しいその体を、今もまだ思い出すのは、あの時わたしが、目を逸らしたからだろうか。

◯イカは自分より小さな魚を摂って食べた。小さいので、味というよりも食感を楽しんで食べた。食事は好きでも嫌いでもなかったが、アジの子供を捕まえた日は、いつもより良い日だと思っていた。


●それは江ノ島の海岸に落ちていた。腐って白くなっているように見えたが詳細には確認してないので、本当に腐っていたのかは分からない。ゴミが絡まっているようにも見えた。白くなった部分には、骨のようなものも見えたが、魚というには違和感があった。他の部分はレンガのような色味だった。長時間日光に晒されるとこんな色になるのだろうか。まるで焼かれたようだった。それの写真をもっと近づいて撮ろうかとも思ったが、時間もなかったし何よりそれを思いついたのは歩き出してしばらく経った後だった。遠くで見るとプラスチック樹脂の塊のようだった。




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