『昨日より赤く明日より青く』感想②

映画『昨日より赤く明日より青く』の感想②です。『水のない海』、『怪談 満月蛤坂』について書いています。

※本編内容に直接言及する箇所がありますので、既に映画を観た方、観る前のネタバレOKの方向けです。


●『水のない海』

タイトルが示すのは作中で登場するジェニの描いた絵であると思われるが、主人公のユキオやジェニの生きる都会、そこにある日々自体も「水のない海」ではないかと感じた。海から連想するのは広大であること、漂うこと、時にうねるように荒れることなどである。ユキオは特別何かに絶望したり、生きることに対して悲観的ではないのだが、好きなこともやりたいことも特にない日々を送る青年である。夢も目標も、関心を持てることもないので毎日をただ働いて淡々とこなし、一日が終わったらまた次の一日が無事に終わるようにするだけの生活をしているように見える。ふと自分のことを考えた時に、将来何をしたいのかまるで分からないだとか、気がつけば食べて働いて寝てを繰り返しているだけであとはなんとなく過ごして一日がすぎてしまっているということは多くの人が共感しうる不安なのではないかと思う。近未来の設定なので現代よりも技術が発達したAIの指示した通り(多少文句は言うものの)配達の仕事(近年当たり前に利用されるようになっているUber Eatsのような飲食店のデリバリーサービスのようだ。)をし、休憩をしていることも彼自身が主体性を失っていることを強調しているようだ。そんな風に、まるで海に浮かんで漂っているような日々の中でユキオは偶然にも避けていた揉め事の中に飛び込み、それをきっかけにしてジェニと出会う。広い海で二人は出会い、一緒に過ごす中でお互いに影響を受け変化していくという物語だ。一見すると変化しのはユキオだけのように見えるが、ジェニもまた、ユキオと初めて出会った時には恋人との関係に問題を抱え、好きな絵も未完成のまま手をつけずに放っていた。ユキオからすればジェニは「好きなこと」のある人であり、憧れの対象である。ジェニに対する「君は好きなことがあっていいね」というユキオの言葉には、何も持っていない自分を意識して気落ちしたような響きがある。自分の生き方が好きではないけれど、かと言ってどうしようもない。そんな葛藤を感じた。ジェニはユキオが自分に対して関心を持ってくれたのだから、何にも興味が持てないわけではないと告げるが、それはユキオには伝わらない。日本語を話すユキオと中国語を話すジェニ。互いに言葉が通じないことによって、この物語で交わされる会話には「相手に伝えようとして発せられる言葉」と、「伝わらなくても構わないから聞いてほしい言葉」とが混在している点が面白い。そして前者の言葉はユキオの側に、後者はジェニの側に多く見られ、異なる過程によって二人ともが変わっていく物語なのだと思う。
ユキオはジェニの話す言葉が分からないが、彼女の言うことをなんとか理解しようとする。ジェニの言葉を意味は分からないものの繰り返してみたり、AIに通訳を頼んだりしながら自分の言いたいことを伝えようとする。面倒ごとを避けるうちに気がつけば他人のことも避けていたユキオは、また知らず知らずのうちに他人と関わろうと一生懸命になっているのだ。以前まで自分とは関係のないことだった他人に少しずつ近づいていく。一方ジェニはユキオには通じない中国語で感情的に話す場面が多い。こうした場面について、ユキオには完璧に伝わらないからこそ、ジェニは自分の思いをありのままに打ち明けられたのではないかと感じた。悩みや苦しみを語る時、語ること自体にも痛みがある。そうしたことを打ち明けることで、自分の弱さや、本当ならば知られたくないことまでさらけ出さなくてはならないこともある。けれど、言葉にせずにはいられない、心の中だけにとどめていることを外側に出さずにいることができないこともある。理解も問題の解決も求めず、誰かに宛てるつもりもなく、ただ吐き出したい気持ちがある。そういうものはふとした時に独り言のようにこぼれたり、絵や物語の中に織り込まれたり、そうでなければこの作品におけるジェニからユキオに対する言葉のように発せられるのかもしれないと思った。
ユキオの内面の変化は言葉や、ジェニのために危険(あるいは彼に何かしらの影響を与えうる環境)に自分から関わっていくといったことによって描かれるが、ちょっとした仕草や態度、表情の中にもそれが表れているところが魅力的である。特に印象深いのは初めにユキオがジェニの部屋にやってきて一緒に食事をする場面だ。部屋にあがったユキオは緊張したようになるべく小さくなって座っており、いかにも居心地が悪いといった様子である。ジェニに一緒に料理を食べるよう言われて応じるが、彼女と視線を合わせないだけでなく、身体ごと横に向いて食事を始める。ここには関係のない他人と関わることを面倒に思い、恐れているユキオの心情がよくあらわれていると感じた。その後のジェニとの交流の中で、最初はただ言葉が通じないことに困り果てていたユキオが笑顔を見せたり(コップにピンポン玉を入れて喜ぶ場面は本当に嬉しそうで、ついこちらまで笑顔になってしまった。)、ジェニを苦しめていたスケコマシ男に対して怒りをあらわにする場面からも、ユキオの感情が以前よりもずっと多様で豊かになったことが分かる。この物語におけるユキオの変化は、夢や目標を見つけて自分のやりたいことのために積極的に行動するようになるというようなことではない。ジェニやAIに言われるがまま、成り行きで行動する場面も多い。けれどジェニと出会い、幸せと呼べる時間を見つけたことで、ユキオの空虚な日々は終わる。ごく些細な変化がこれからの日々を明るく照らす、微笑ましい物語である。

●『怪談 満月蛤坂』

幽霊譚という変則的な物語ではあるものの、やはり主人公の内面の変化を描いている作品。他の作品の多くが東京を舞台としている一方で金沢(蛤坂や犀川大橋などが登場、話の中で言及される前田氏は加賀藩主で知られる)の料亭を中心にストーリーが展開される。正体不明のものに対する静かな恐怖、「人ではない何かがいる」気配の不気味さが楽しめるので、ホラーものとしても楽しかった。個人的にいわゆるジャパニーズホラー系の作品が好きなので幽霊や怪異に当たるものが特別攻撃的には描かれていないものの、明らかに現世のものではない気配を持って存在しているという雰囲気がとても良かった。特に今作独特の異様な雰囲気は光と影の使い方によって際立っているように思う。幽霊と交わる場面で蠢く二人の影や、夜中の料亭で幽霊・たみが自らの両親に良介(本作の主人公である若手料理人。たみは彼を自分と恋仲であった男と重ねている)の料理をふるまう場面はなんとも言えぬおぞましさに満ちている。本来絶対にいるはずのない者たちが部屋の明かりに照らされ、料理を貪るように食べている様を恐ろしげに見つめている良介の背後の部屋はたみたちのいる部屋とは反対に暗闇として描かれている。この幽霊の食事の場面は本作でも特に好きな場面だ。
幽霊に憑かれた良介の首には爪で引っ掻かれたような深い傷ができる。そしてしだいにひどい吐き気に苦しめられ、その後には妊婦のように自らの腹が膨れてしまうようになり病院を訪れる。当然霊的なものが作用した結果だと診断されることはなかったが、医師からは心因性の想像妊娠のような症状であると告げられる。自分の身体の中に自分とは別個の存在がいる感覚。本来そんな仕組みを持たないはずの男性が突如としてそうした感覚に近いものを得て、肉体に明らかな変化が生じるということは幽霊とはまた違った方向性の恐怖であるように思う。(女性の映画監督であるルシール・アザリロヴィックも妊娠、あるいは寄生を描いた自身の作品『エヴォリューション』について、妊娠から生じる恐怖について語っている。)医師はそうした現象が相手の女性との関係において生じると説明するが、良介にはその相手の女性にまるで心当たりがない。ただでさえ理解しがたい状況に、さらに原因不明という要素が重なることで恐怖が増す。こうした特殊な形式で幽霊に憑かれた人間を描く作品であるので、料亭で良介が吐き気を催す場面で登場するアンコウにも何か意味があるのではないかと思っていたので、鑑賞後に生態を調べてみた。アンコウのメスは子孫を残す際、オスを自身に取り込んで同化する、オスは最終的に養分とされるというような記述を見かけ、本作においてたみが良介に憑くことで起きた肉体的な同化や、彼女を鎮めるために精神的に寄り添うことが必要だったということが、アンコウによって示唆されていたのではないかと感じた。
良介がこうした怪異に巻き込まれたことは実はなんのいわれもない理不尽、不運によるものではなく、「良介の内面がかつてたみを捨てて姿をくらませた料理人の男と似ている」ことと関係している。料理の修行に励む一方で、ふらふらとだらしなく遊びまわる良介の、人間として未熟な部分が恋人と重なったからこそ、たみは取り憑く相手として彼を選んだ。こうして怪異から逃れるために良介はたみに寄り添うことで、精神的に成長する必要に迫られる。(冒頭のある飲み屋から出てきて、また別の店に入るという短い場面で良介が浮気者であることが巧みに描かれている。最初の店で一緒にいた女性につれなくされたのか、良介は残念そうに少し甘えた様子で彼女に話しかけつつ店を去る。そして、先ほどと同じように調子良く数軒先の店にいる女性に話しかけていくという場面だ。良介に誠実さのないことは明らかだが良介を演じる中務さんの、のんびりとして愛嬌のある話し方から、これは周りから可愛がられる人間だなということも伝わってきて面白い。)
物語の形式として「怪談」が、良介を主人公としているものの映像自体が常に彼に寄り添うものではなく、彼が画面に映っていない状態で物語が進行する客観的な構成(精神科を訪れている患者が廊下で独り言を言いながら歩いていく場面や、いわくつきの包丁が残されていたものの、良介は調理場にやってこないという話を、幽霊の秘密を知る料亭の女将が聞いている場面など)となっていることや、良介と女将がたみの出産を助けた後の様子が女将の「語り」によって描かれていることで表現されていると思う。良介という青年の身に起こった怪談が、観客に対して語られるという形を取っているのである。(怪談は怖い話、不思議な話の総称でそこで語られるものの中には幽霊、妖怪、化物とされるものが含まれる。日本独自のものを限定して指すことも多いようだ。また、誰かの体験や言い伝え(現代で言えば都市伝説的なものだろうか)として語られるという性質からその土地の文化と関係のある話、民俗学の一分野としても知られる。怪談といえば、四谷怪談や皿屋敷などが有名であるが、民俗学者・柳田國男による『遠野物語』なども面白い。)

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