天使の記号学 第2章 読解

第2章 欲望と快楽の文法

人間にとって欲望は<悪>なのか?という問いが投げかけられる。人間は理想化した存在である天使と現実の落差に絶望し、自らの肉体に<悪>を見出そうとする。欲望は本来、生命を維持するための外側に働きかける力であるが、生命の誕生が性的欲求その働きかけから生じる性的行為が源にある以上、生命の誕生それ自身が穢れあるものと捉えられる。著者は欲望が<悪>であるはずがないと述べているが、前章で述べられた意志による障碍が<悪>なのではないだろうか。ただし、ここで述べた意志はトマス・アクィナスによる<内的>な意志ではなく、社会性から到来する<外的>な意志であると私は考える。この外的な意志とは、科学によって機械化されつつ現代が最適化されたー欲望なき肉体ーを本望することにあると考える。著者は電子化されたグノーシス主義の時代と現代を表現しているが、あらゆる欲望の最適化ー欲望を定量的に、閾値以下に拘束することーが望ましいという傾向から、私は機械化されたグノーシス主義の方が納得のいく表現であるように思える。

ここで本来のグノーシス主義の要点が挙げられている。

① 現実世界を悪に満ちたものとして非難し、拒否する。
② 魂と肉体との結合を諌め、肉体から離脱することを勧める。
③ この世界・宇宙の創造者を、悪の張本人として責める。
④ 世界の生成と完全な消滅を説く。
⑤ 世界創造者を魂と同一視する。
⑥ 世界創造者の魂に、人間の魂と同様の情念を帰す。
etc...

p.46

元々のグノーシス主義は肉体の消失が第一義的なものであるが、現代のグノーシス主義は自己が無垢な存在であり、世界自身が汚れたものであるというのが、いくつかの例と共に端的に述べられている。ここまでの話を見る限り、グノーシス主義と天使主義は同等のもののように見える。
欲望それ自身は脆く、弱みである。欲望は恥部であり、それは隠されることによって人間存在を明らかにする(バタイユの思想は専らここからの脱自であるように思われるが)。我々は欲望の主体になり得ない。なぜなら欲望は外側に働きかけるからだ。著者は欲望の不在であっても仮象として存在することができ、欲望なき罪悪感を引き起こすことができると述べているが、欲望は内的に無限に湧き出るものでは無いのだろうかという疑問が残る。
欲望の弱点は欲望がいかに私的で特異的であると思わせることにあるとあるが、大まかに俯瞰すればそうなのかもしれないが、ではコンプレックスからくる錯綜した欲望は個別性へ直結しえないのだろうか?
一般的な欲望に対象を絞ると、欲望は凡庸なものであり、それを自身の内に隠すことによって個別性を保存し、罪悪感と良心の錯綜状態をもたらす。それを個別性と誤謬してしまうということが問題点なのである。ここで罪悪感ー良心を「共犯関係」としているが、これに対してバタイユはむしろ良心を切り捨てー侵犯ー、欲望それ自身を外側と交流させることーもはやそこには罪悪感は無く、罪悪感は虚無に帰すーが至高性だと言っているように私は思える。
著者は欲望の対象は初めから明確な形で与えられるため、対象が与えられれば充足可能性の形式は既にあると言う。では、充足可能性の形式をもたない欲望とは一体何なのか。

アクィナスによると欲望は目的によって秩序付けされる。秩序付けは欲望ー作用ー対象という構造をもち、作用に命令が下されることによって秩序の範囲内に欲望はおさまると述べられている。そして、この機能は上位の理性によって達成される。根源の破壊はこの上位理性の破壊そのものである(上位理性について私はまだ知らない)。
充足可能性の形式をもたない欲望は秩序付けから与えられる尺度と限界を超えたときであり、自然的限界を超えること、すなわち欲望を満たすことが目的ではなく、欲望ー作用ー対象の連関を破壊し、自己毀損へ至ることこそが充足可能性の形式をもたない欲望である。例をあげると過食やアルコール依存等である。自己毀損は肉体の超越ー機械的な目的の達成ーをもたらし、<存在>をも破壊する。

エロティシズムは残酷で、悲惨へと導き、破滅的な浪費を要求する。

ジョルジュ・バタイユ(訳:江澤健一郎) 有罪者, 友愛,
Ⅲ 天使 p.42

性的欲望とは差異に基づく、差異への欲望だ。ー(省略)ーエロティシズムとは本質的に、一つの言語であり、ひとつの記号体系であり、一つの象徴体系であるからだ。

山内志朗 「天使の記号学」p.70


肉体的欲望は中世的な発想の下では罪や穢れといった馴染まないにも関わらず、厳格な禁欲主義が営まれていた。著者は肉体的欲望の罪と穢れは過去の贖罪からくる未来への投企の罪悪感だと述べている。つまり、有罪者としての快楽は裁かれなければならないという自己毀損があるように思われる。

個別性は、裂け目を貪欲に求める者にとっては必要だ。裂け目は、ひとつの存在の裂け目、まさに充溢ゆえに選ばれた存在の裂け目でないとしたら、なにでもないだろう。その存在における生命の過剰さ、充溢は、空虚を際立たせる彼の能力だ。

ジョルジュ・バタイユ (訳:江澤健一郎) 有罪者、ハレルヤ ディアヌスの教理問答 p.301

バタイユの思想は肉体の自己毀損を回避し、神秘的体験によって有罪者の断罪そのものを、外部を交流という形で自己に取り込むことーまさに死に溶けていくような感覚ーなのではないだろうか。


新版 天使の記号学: 小さな中世哲学入門 (岩波現代文庫)

有罪者: 無神学大全 (河出文庫)

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