天使の記号学 序-1章 読解

勉強ノート的にしているのであしからず。

序章 天使主義的飛躍

一方から他方の間に断絶があるとき(肉体と精神)、無媒介で飛躍すること、すなわち天使主義的飛躍が生じる。しかし、媒介を介するということは、すなわち肉体-媒介-精神という伝達形式が成り立つとき肉体から精神へ、またその逆においても齟齬が生じる。人間は本質のみによっていきることは必然的に無理難題を突きつけられており、間違いだらけの社会を生きなければならない(私自身、ここには「諦め」というニヒリズム性及びグノーシス主義を受け取る)。
では、ここでいう「媒介」とは何を指すのか。例として、「世間」「身体性」「人間的尺度」が与えられている。これらは人間社会において経験的にしか獲得できないように思えるが、著者は経験前と経験後の二項対立自身に誤謬が潜んでいるのでは無いのかと考えている。つまり前後に媒介を獲得する手段があるのではなく、経験前-経験後の「中」に媒介は潜んでいるのだ。非-知に「かたち」が与えられ、内在化し、変容していく。私たちは決してそれを認識することはできない。認識しているゆえに認識できない本質であると思われる。
ここで著者は中世哲学(超越的内在性)に戻ることを決めるわけだが、現代は「電子的グノーシス主義」であるととく。

媒介が経験の前や後にあるのではなく、中にあることーあえて言えば、リアリティは<見えないもの>と<見えるもの>のいずれの内にあるのでもなく、その間にある。

p.8


第1章 天使の言葉

天使のような欲望を持たぬ穢れなき存在になりたいと願う人間は多くいるが、その欲望自身が猥褻である。ここで人間を天使に近づけ「透明な存在」として捉えることが、残酷で悪魔的発想であると警鐘をならし、「天使の言語」の危険性を問題としている。

天使はギリシャ語のアンゲロー(伝える、伝達する)の派生語であり、「伝達するもの、メッセンジャー」、すなわち神の心を人間に伝達する者である。これは存在しないに等しい媒体、理想的な媒体である。天使は透明である(肉体を持たない)ため、言語を介することなく直接的に意思の疎通が行えるが、心が肉体に包まれた人間はその意思を不明瞭な言語を用いてコミュニケーションを行うため誤謬が発生する。

中世の正統的な見解は肉体を持たない天使も言葉を有するということで、著者はトマス・アクィナスの天使言語論を準拠している。
トマス・アクィナスによると精神の内側にあるものは、二重の障碍ー肉体と意志ーによって遮られ、自閉したものになっている。そして、根本的原因が肉体ではなく、意志であるとしている。つまり、意志は「伝える」という他者への運動のエネルギーを与えるポテンシャルである。言葉それ自体に付与ははしないが、それが現象として具現化する力である。
天使の言葉には不透明性がある。言葉は常に語られることによって、語り手を裏切る。手放された言葉は変身した形で、もしくは受容者によって捻じ曲げられた形で伝わる以上、もはや汚濁に塗れたものになる。
ここで著者は「祈り」へと足を広げる。標準理解によると、祈りは行為であり、自己への環帰によって神に至る神秘的体験への初歩である。「祈り」によって情動を揺さぶり、敬虔な心情を引き起こすーすなわち、祈りも現象として具現化する力であると言える。

電子的グノーシス主義である現代において、現世に受肉することー自らの意志によって産み落とされたものではないーは堕落を意味し、自己、他者、世界への破壊欲求ー天使の透明性への憧憬ーが見られる。すなわち天使の言葉に着目するあまり、人間の言葉の不完全性から眼を逸らし、穢れた欲望にいつの間にか堕ちてしまう危険性を天使主義は大いに孕んでいる。

岩波現代文庫 「新版:天使の記号学 小さな中世哲学入門」

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