バタイユ 人間と自然の対立についての二つの断章 読解

人間と自然との対立は人間が自然の錯綜のしがらみから抜け出し、理性的な純粋さへ自らを還元するとき、すなわち自律することへの運動の過程で生じる。
人間存在は自律という運動の最中、自らの錯綜が自然の錯綜に従属していることに気づく。人間存在は媒介を必要とし、錯綜状態の従属から抜け出すために神や理性といった、純粋であると考えうる媒介を求める。しかし、神や理性は錯綜状態と関係しているため、それゆえに純粋ではない(天使主義的な危険性を孕む)。
キリスト教的自然は誘惑と命令の二重性を帯びており、この錯綜した与件の諸要素を整理し、その中で人々は自律を探求する。そして、その中で善と悪を切り離す。
ここでいう悪は、人間の頭脳による自律への意志(個別性の保存?)である(つまり、神の所有を被造物が自らの内に求めること)。神はあらゆる錯綜状態の秩序として、もはや理性そのものである。
キリスト教において人間が否定する自然は、自然の錯綜状態に従属した根源的な性質そのものであり、これは自然そのものの否定である。
キリスト教は自然=人間が動物として自然に従属している、に対して禁止を設ける(禁欲主義)。
人間は自然の「問いへの投入」であり、自然があらゆる問いへの回答を所有している。‪自然に問いが投げかけられるという賭けがロゴス=言語という不明瞭なものである以上、自然そのものから得られたあらゆる回答=人間の自律は到達しえない至高性である。‬

河出文庫 「無神学大全:有罪者」江澤健一郎 p.247-256

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