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ホログラフィーアートは世界をめぐる 第3回 セビリアからサンパウロヘ

 1992年セビリア万国博覧会にホログラムのインスタレーションを展示した(図1)。4月20日から10月12日の会期で,スペイン第4の都市セビリアで「発見の時代」というテーマで開催された万国博覧会の日本政府館の第5室に,サイエンス・アートギャラリーが設けられ,私のほか,作間敏宏,原口美喜麿,佐藤慶次郎,岩井俊雄,松村泰三の6人のアート作品が展示された。このギャラリーは,長年科学と芸術をテーマに取り組んでいた坂根厳夫氏(朝日新聞退職後慶応義塾大学教授)が企画構成し,テーマは「光の縁日(日本の夏祭り)」であった。サイエンス・アートという名の通り,映像,サイバネティックスアート,キネティックアート,光のアート,そしてホログラフィーなどによる「夏祭り空間」を作り上げた。ちょうどこのころ,私は大型サイズのマルチカラーホログラムを制作し始めた時で,それは七夕を連想させる,空間全体のインスタレーションを試みた。笹(図2)に下げられる短冊(図3)のトンネルを通りすぎると草原の風景が広がる(図4)という趣向である。笹のイメージには葉のシルエット,短冊には毛筆の文字,そして,風景には筆の軌跡を記録したドローイングによる印象派の絵画を連想させるようなイメージを試みた。このセビリア万博の展示は苦労も多かったが,その後の私の活動の場を広げてくれる機会ともなった。

図1 セビリア万国博覧会 日本館 サイエンス・アートギャラリー 夏祭り 七夕インスタレーション会場風景

スペインのフライパン

 展示の設営には,私はオープン1ヶ月前に現地に入った。万博会場は例にもれずとにかく広い。オープン直前ということで,会場内のいたるところが最終段階の工事の追い込みの真最中で,埃っぽく足場も悪い。おまけに,まだ4月上旬だというのに,毎日30℃を越えるカンカン照りで,とにかく目的のパビリオンにたどり着くのにも,毎日一苦労であった。日本館は安藤忠雄の設計で,外壁が木材で覆われたパビリオンであった。オープン前だというのに,木材の表面は強い日差しと乾燥で,すでに干からびて白茶けた状態になってしまっていた。木材の美しさを表現するのには,もっと湿潤の気候下でなくては無理である。これでは,木の良さがまったく伝わらず逆効果だ。素材の選び方のミスマッチではないかと,ひとり心の中で心配していたのだが,オープン直前になって,外壁表面全面にオイルが塗られた。そうして,白茶けた色からやっと木のぬくもりのある茶色に戻ったが,この状態が半年の期間保たれるかどうかは疑問であった。建築物は長い歴史の中でその地の気候風土にうまく適応して成り立つものだ。博覧会のパビリオンは短期の仮設的建造物がほとんどだが,だからと言って現地の気候風土を無視していいことにはならない。
 夏は暑く乾燥した地中海気候のセビリアは,「スペインのフライパン」と言われていることを後になって知った。「フライパン」の地で「木材」という素材選択に,はなはだ疑問をもっていた私であったが,万博が終わって数年後,偶然腑に落ちるできごとに出食わした。パリの美術館に出かけ,建築模型が展示されている会場を回っていた時に,「おや?」という形を発見した。よく見ると安藤忠雄作だった。セビリアの日本館と同じ形だった。建築模型によく見られるようなボードなどで造られた物ではなく,木目の美しい丸木の塊から彫り出されたオブジェは,それだけでインパクトがあった。そのまま建物として具現化されたなら,木の良さを日本のシンボルとして伝えられたであろう。しかし,「フライパン」のセビリアでは実に残念な結果となっていた。模型とは設計者が完成する建物のイメージを事前に伝えることだ。ところが,素材の特性と環境の関係を無視しては単なる机上の空論となって,時には失敗に終わる。この展覧会は世界の安藤の残念な例を追認する出会いであった。
 日本館のほかの展示室がごく当たり前の展示空間であったのに比べ,サイエンス・アートギャラリーの空間は,作品を展示する以前にすでに木組みの木材の展示場のような有様だった。内装のデザイナーが安藤氏の日本館のイメージを“忖度”した結果か? 余計な木々の柱はすでに取り外すすべもなく,使いづらい空間この上なしだった。私は何とか工夫してインスタレーションを仕上げた。設置完了後,私は残念ながら会期オープンまで滞在して待つことができなかった。

図2 笹(100 cm×180 cm)      図3 短冊(30 cm×90 cm)  

アルハンブラの思い出

 セビリアの滞在中,せっかくはるばるセビリアまで来たのだからと,オフの日,私はほかの参加アーティストを誘ってグラナダのアルハンブラ宮殿まで足を延ばした。電車で片道3時間半ほどの距離で,日帰りは無理なので,宮殿の敷地内にある優雅なホテルに1泊する旅となった。森の中の贅沢な宿であったが,早朝やたら騒がしい音に目が覚めた。それは,夜明けとともに一斉に始まった小鳥たちのさえずりであった。そのなんと騒々しいことか! もはや「うるさい」としか表現不能なほどで,眠りに戻ることなどは不可能,小鳥のさえずりがこんなにも賑やかであったとは,新鮮な驚きと発見であった。
 「新鮮な驚きと発見」と言えば,いつだったか中央アジアのキルギスに初めて訪れたときのことを思い出す。現地到着は夜で,空港から車で宿に向かう途中,眠い目をこすりながら何気なく外を見ると,無数の明るい点々が私たちの回りすべてを取り巻いていた。はじめは,状況がよく理解できなかった。しばらくして,それはなんと,星々が輝いている様であると判明した。遠近感を失った私の瞳には,それらはまるで手の届くような空間に満ち溢れているように見えた。スターダスト! まさに星屑を身をもって体験した瞬間であった。
 話は戻るが,小鳥たちのおかげで朝早くに目覚め,美しい庭園の散歩もかなった。アルハンブラ宮殿は13世紀にこの地を都としたイスラム教徒によって建設され,グラナダの陥落(1492年)後も破壊されず,キリスト教徒の王たちによって改築や増築されて,アラブ様式のみならず中世ルネッサンス様式などが調和よく混在し,現在に至っているという。建物はもとより,敷地内は緑と水のまさに「楽園」だった。素晴らしい異文化を駆け足で堪能して帰路につくことにした。
 遅くならないように電車に乗ったが,窓の外は間もなく日が暮れた。セビリアとグラナダの途中にはあまり大きな町はなかった。行きの車窓では,石ころだらけの丘にオリーブ畑が広がっている景色ばかりであった。田舎の駅は,ホームの真ん中あたりに駅名の書かれた大きな看板が1個あるだけで,駅に着いても車中から駅名の確認をするのには結構苦労がいった。長い車両のため,後方の連結車両からは看板を見ることすらできなかったのだ。乗車して3時間ほど過ぎた頃,私たちは目的の駅を乗り過ごしていけないとソワソワ気をもみ始めた。車中に停車駅名が表示される電光掲示板などあるはずのない時代だったし,外は暗く前後の駅名も定かではなかった。到着予定時刻を過ぎたけれど,電車はまだ走り続けている。20分ほども過ぎた頃,停車した。駅名を確かめねばと私は目を凝らして探しているうち,仲間の1人が「ここだよ。降りよう」と,さっさと降りてしまった。別行動はできないので,やむなく後に続く。やっと看板を見つけて確認すると,そこは降りるべき駅ではなかったことが判明した。

図4 草原風景シリーズの1枚(100 cm×130 cm)上下視点移動によってカラーバリエーションが起こる。

 電車の運行が遅れていて,どうも手前の駅で降りてしまったらしい。しかし,時すでに遅かった。電車は発車し,後続列車もない。しかたなく小さな暗い駅で,やっとタクシーを見つけ乗り込んだ。そこで,我々は,はたと気が付いた。誰も自分たちが泊まっていたホテルの住所を持っていなかったのだ。唯一の記憶は,近くに大きなカテドラルがあったことだけだった。しかし,ヨーロッパの街はどこにでも教会があるし,タクシーのドライバーはスペイン語しか話さない。我々は3人ともスペイン語はペケ。私は仏語もほとんど忘れかけていて役に立たない。目的駅が隣りなのかもっと先なのかもわからず,本当に迷子状態に陥ってしまっていた。しかし,大変な状況に置かれていたにもかかわらず,3人一緒というのはなんと心強いことか(能天気でいられることか?)。この「大きなカテドラル」が功を奏し,隣りの駅で降りてしまったことも分かり,無事に事なきを得て帰還をはたしたのである。アルハンブラのオフは,冒険と発見の2日間が思い出となった。
 帰国後,セビリア関連のニュースが時々メディアに流れたが,内容はいつも,建築家の安藤忠雄が設計した木造のパビリオンと,館内には安土城天守閣の最上部(5~6階)の原寸復元がメイン展示されているといった類の紹介ばかりで,ほかの展示室はもちろんのこと,サイエンス・アートギャラリーなどが展示されている情報すらまったく伝わってこないありさまだった。
 ところで,半年の会期も半ばを過ぎたころ,JETRO(万博に出展の日本の窓口)から連絡が入った。現地のスタッフからの問い合わせで,「あなたとコンタクトを取りたいという人がいるが,連絡先を教えてよいか」というものであった。どうもブラジルの人かららしいが,詳細はよくわからない。しかし,私の作品に興味をもってくれたのなら,ぜひ連絡をとりたいと思い,二つ返事で「教えていいです」と答えた。しばらくして連絡を取り合うようになったが,それはサンパウロの芸術大学の教授からで,サンパウロで新しい表現の展覧会を企画しているので,作品を展示したいというものであった。
 結局,セビリアが縁となって,私はその後2度,サンパウロを訪れる機会を得た。それ以前に1度だけ,サンパウロビエンナーレ(1979年)で,ブラジルを訪れたが,日本とはちょうど地球の反対側に位置するブラジルに,その後2度までも招待される機会が巡ってきたことは,今思い返しても,大変ありがたく素晴らしい体験であった。そのきっかけは,1人の人物がブラジルからはるか遠いセビリア万博に出かけ,たまたま日本館のサイエンス・アートギャラリーの展示を見てホログラムに目が留まり,わざわざ私に連絡を取りたいと申し出てくれたこと,そして連絡窓口のJETROのスタッフがその問い合わせをおろそかにせず,丁寧につないでくれたことが,その後の私の活動につながっていったという不思議な縁である。
 セビリア博の展示に関してはさらに後日談が2つほどある。ISDH(International Symposium on Display Holography)が3年に1度開催され,私は皆勤で毎回参加しているが,2006年にイギリスで開催された時,ポルトガルから来た,ホログラフィーを始めたばかりという2人のアーティストに,「あなたの作品をセビリアで見た」と,声を掛けられた。私は博覧会からずいぶん時がたっていたので驚いた。それも,博覧会の会場で見て,それが私のホログラムだとよく気づいてくれたものだ。この時出会った若いアーティストは,今年6月にポルトガルのアヴェイロで開催されるISDH2018の主催者となっている。もう1つのエピソードは,同じ年の2006年に,国立台湾師範大学で大掛かりなホログラフィーの個展が開催された時のことである。会期中に,私は講演をすることになった。師範大学は,理系・文系・芸術系がすべてそろった総合大学である。講演の準備中に,「初めまして」と司会のデザイン科の先生に挨拶をしたら,「あなたの作品は今回初めてではありません。セビリアで見ました。」と返ってきた。
 日本国内では,万博に出品後も何の反応も変化も起こらなかったのだが,気付いてみたら,私は,世界の人達とホログラフィー作品を通してつながっていたことに気付かされたのである。

(OplusE 2018年5・6月号掲載。執筆:石井勢津子氏。
ご所属などは掲載当時の情報です)

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