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戦争の物語を読み解いていくということ

前回、「他者の行為の意図について考える」をなんとか書き上げたわけだが、今回から週に1本ペースで感じたこと、考えたことを投稿していきたいと思っている。
大学院生の身分であるということで”考える”、もしくは”インプット”の作業は毎日のようにしているが、それらを話す場、つまりはアウトプットする作業ということが比較的少ない。そのためにnoteの場で考えたこと、感じたこと、インプットしたことを述べていけたらと考えている。俗に言う、”備忘録”というわけだ。

9月下旬から大学院の方では後期が始まり、平日は講義を受けている。
その授業の中で、小説、論説、詩など、なんでもいいので1つ題材を自分で決めて担当の教員とその題材について自身の教材観について語り合うという講義がある。
”教材観”というと教育・保育関係の仕事についていないと聞き慣れない言葉かもしれないが、完結に述べると、「その教材(作品)を通して、子どもたちに1番何を伝えたいのか」ということである。つまりは、その作品を読んだのちに子どもたちだけで話し合いを行い、その場で子どもたちからどのような内容の話を聞き出したいかということである。

そして、今回扱った題材の内容が戦争ものであった。
戦争ものの内容をそのまま読み解いていくと”悲しい””辛い””二度と引き起こしてはいけない”というような感想を大体の人が持つと思う。
しかし、今回は批判的というか現代的に読み解いていった。

そこで抱いた感想は、実際に戦争を経験していない僕たち世代が子どもたちに何を教えることができるのだろうかということである。
実際に経験していないので、自分自身から出てくることは何もない。内容をもとに自ら考え、その内容を子どもたちに教えるということになるのではないだろうか。
教えられたとしても、薄っぺらい内容であり、子どもたちに説得力のない内容になってしまわないだろうか。またその内容を教わった子どもたちが次の世代にどのように戦争を語り継いでいくのだろうか。
おそらく、表面的な内容でのみしか学習できていないので、自身の語りで教えていく際には誤解が生じた内容を教えているに違いないだろう。

そのような時代が来ようとしてる中、学校教育における国語科では何を目指していかなければならないのか。
この場で答えが出るような簡単な課題ではないだろう。難題だと言える。この難題に答えというものがあるのかすらわからない。
しかしこの難題に一つだけ示唆に富むことを述べると、子どもたちは好きな小説や物語をどんどん自分の力で読み進めていくことができるということである。これは社会人である僕たちも同じだろうと思う。何が言いたいのかと言うと、自分が得意としない分野の小説や物語はなぜ読むことができないのか?もちろん好き嫌いということはあるだろうが、嫌いだったとしても内容はしっかりと把握できるような読み方が必要になってこないだろうか。
つまり、どのように上手く読んでいくことができるのかという”読むコツ”を教えていくことが大切になってはこないだろうか。要点を押さえながら読んでいくための手習いが。

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