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水を視る、 一:最先端の循環型社会だった江戸と『見沼通船堀』

 表紙写真は,関東流で築かれた八丁堤を紀州流の工事により切り開いたところにかかる橋からみる通船掘西縁と芝川の合流地点。ちなみに,伺った少し前にここから車が川に転落するという事件が起きたそうです。事故ではなく事件としたのは,あたかも道路が続いていると見せかけ転落するよう仕向けられた形跡があったとか…火曜サスペンス劇場並みの事件がのどかな町に…。お亡くなりになったかたのご冥福をお祈りします。
 
 安岡章太郎『利根川・隅田川』にすっかり魅せられた私は,さっそく『見沼通船堀』へ散策にゆきました。遡ること5か月,8月30日暑い盛り。日本気象協会HPによれば,その日の東京の気温が34.9度,埼玉(熊谷)の気温が37.0度。その日の暑さが鮮明に蘇ります。いや,本当にしんどかったけれど,それ以上の興奮が(笑)

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(こちらは再整備工事が終わった通船堀東縁,二の関から一の関をのぞむ写真です。暑さが伝わるでしょうか。)

 さて,日本のパナマ運河こと『見沼通船堀』とはいったいどのようなものか先に見ておきましょう。
 残念ながら木製の閘門は長い歳月により朽ち果て,現在の『見沼通船堀』は復元されたものです。それなりにさいたま市が力を入れているのか,国の指定史跡になり保存しなければならなくなったためなのか,どちらなのか不明ですが(願わくば前者であってほしいものです。),観光地さながらにきれいに整備され案内板があり概要を説明しています(ショーケースに入ったジオラマのようなものまでありました!)。

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 なぜ,見沼通船堀が造られたのか。

 序章で取り上げた『利根川の東遷』,川の大移動によって広大な沼沢地ができました。この沼沢地の一部である見沼(現在のさいたま市)に八丁堤という土手を築き堰き止め,灌漑用水池である『見沼溜井(ためい)』が造られました。ちなみに,既存の沼に水を流し入れ,洪水は遊水池などで受け入れるこの方法を『関東流』といいます。
 しかし,耕地が拡大する中で溜井の水だけでは不足すること,大雨時には近隣が水没することなどが問題となり改善の必要がありました。
 また,江戸の人口が増えるにつれ関東近郊により広大な耕地が必要となっていました。時は八代将軍 徳川吉宗の治世。吉宗の出身地紀州の土木工事を成功させ,将軍の覚えめでたい勘定吟味役 井沢弥惣兵衛為永により見沼の土木事業が始まりました。
 まず,八丁堤のほぼ真ん中を切り開き荒川へ流れる排水路である『見沼中悪水』(現在の芝川)がつくられました。なお,その後,両側に利根川から取水した灌漑用水路である『見沼代用水路東縁』と『見沼代用水路西縁』ができたため真ん中をとおる悪水(排水路を指します。)ということで『見沼中悪水』と呼ばれたそうです。ちなみに,さらっと代用水と書きましたが,見沼用水(溜井)の代わりの用水なので『代用水』と呼ばれたそうです(「見沼代」の「用水」だと思っていました。)。
 代用水と悪水の間には高低差が3メートルありましたので,その高さを船で乗り越えなければなりません。船を3メートル高く遡上させるために『見沼通船堀』は築かれたのです。そして,この『見沼通船堀』をとおって主に年貢米などが運ばれたということです。
 なお,用水と排水を分離し,連続堤により洪水を遊水させず河川敷に流れを固定し海へ排水するこの方式を『紀州流』といいます。
 ざっくりとまとめますと,関東流が限界に達したから紀州流にしてみたら,船は鮭のごとく遡上し,江戸も関東平野も潤ってよかったね,めでたしめでたしということです。

 それにしても,紀州の技術力おそるべし。
 同じく江戸時代に漁業の技術を房総半島へ伝えたのも紀州の漁民です。技術と共に人も移動してきます。その名残りが勝浦や白浜といった紀州と同じ地名にあらわれています。また,みかんの栽培,杉の育成,醤油の製造なども紀州から房総半島へ伝えられたということです。
 紀州から房総半島への人と技術の移動がなければ,江戸があれほどまでに繁栄することもなく,ひいては関東全体の発展もなかったかもしれません。
 人の移動が制限されている今,あらためて,人の移動の重要さを考えずにはいれらません。また,日本においては黒潮の流れが移動に大きな影響を与えたこともこころに留めておきたいです。
 ちなみに,わたしは「紀州の山々のように美しく育ちますように」という父の願いを込めて名前にその漢字をいただいています。女の子に山々のように…という発想がいささか謎ではありますが,山が好きでよく登山をしていた父には父なりの思いがあったのでしょう。とても好きな名前ですし,一度しか行ったことがないのですが,紀州には惹きつけられます(コロナ禍がある程度落ち着いたら両親と共に紀の川から山々を望みたいものです。)。

 さて,ここで『見沼通船堀』の年表を見てみましょう。

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(さいたま市ホームページ,現地案内版をもとに著者作成)

 本来であれば2020年から通船堀西縁の再整備工事を行う予定だったそうですが,コロナ禍の影響を受け延期されています。『見沼通船堀』の再整備は不要不急ではないと言われているようで残念です。これが「生きている堀」であったら違ったかもしれません。
 
 『見沼通船堀』は他の輸送手段が主流となったために大正末期には衰退していたということですが,1931年(昭和6年)に運行許可が切れたことで正式に廃止となりました。
 同じくパナマ運河方式でイギリスでは『パウンドロック』といわれる方式を用いて1631年に開通したテムズ川の『Iffley Lock』は,改修工事を重ねながらも主にシーズン観光用途とはいえ現役で活躍しているといいますから,一度は朽ち果て,再建しても展示しているだけというのは少し寂しいものです。
 なお,年に一度,閘門開閉実演を行っていますが2020年はコロナ禍につき中止となってしまいました。代わりと言ってはなんですが,さいたま市の公式youtubeチャンネルで実演の模様が公開されています。2021年も開催できるか微妙なところですが,これは絶対に視たい!視たい!視たい!実演見学の機会に恵まれたあかつきには続編『見沼通船堀,蘇る』をお届けする予定です(できるのか・・?!)。

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 江戸時代から大正時代初期までは重要な輸送手段を担っていた『見沼通船堀』ですが,代用水の水は農繁期には農業用として使用し,農閑期に通船用として使用していました。およそ秋の彼岸から春の彼岸までが通船期間だったそうです。
 通船期のはじめに運ばれるのはその年の年貢米だったかもしれません。豊作と出航を祝う祭事が行われ,盛大に送り出されたことでしょう。そのにぎわう様が目に浮かぶようです。
 また,年貢米のほかにも様々なものが運搬されここに最先端の循環型社会だった江戸の秘密があります。ここで,天皇陛下が皇太子のころにご執筆された『水運史から世界の水へ』をご紹介します。

 見沼田圃からは,米,野菜,木材など,また,江戸からは,肥料,大豆粕,魚,塩などさまざまな物資が輸送されましたが,最も重要なものが肥料でした。当時の最も貴重な肥料は人間の屎尿(しにょう)で,金肥(きんぴ)とも呼ばれ,大事に扱われていました。金肥を専用に運搬する「おわい船」も建造され,江戸の屎尿は無駄に捨てられることなく,循環利用されていたのです。なお,おわい船は昭和時代まで使われていたようです。
 この当時,世界有数の大都市であった江戸は,すでに循環型社会を形成していたのです。まさにヴィクトル・ユーゴーが『レ・ミゼラブル』で嘆いたように,世界では屎尿が川に捨てられている不衛生であった時代に画期的なことでした。

ー徳仁親王『水運史から世界の水へ』(NHK出版)

 金肥を捨てることができるほどに日本も欧米並みに豊かになっていったということかもしれませんし,代替する化学的な肥料が使われるようになったのかもしれません。若しくは,金肥を使用することの衛生面が問題となったのかもしれません。複合的な要因があるのだと思いますが,金肥は屎尿として処理され,東京の川は汚れ,臭いものには蓋をと次々と暗渠となってゆきました。暗渠化したことで狭い東京も少しは使える土地が増え良い面もあっただろうことを否定しません。
 日本だけでなく世界中で環境が不安定になっているなか,江戸の循環型社会をみてみると,教えられることがあるように思います。
 引用した章のもととなるのは,平成18年3月17日にメキシコシティで行われた第4回世界水フォ-ラムにおける皇太子殿下の基調講演です。使用された資料と共に宮内庁HPに掲載されています。著書には,ほかのご講演についてもまとめられており,それぞれとても興味深いテーマで語られているのでぜひ読んでいただきたい1冊です。
 
 ついでにヴィクトール・ユゴーの嘆きも読んでおきましょう。私も『レ・ミゼラブル』を読んだ際に,強く印象に残りました。

 パリは年に二千五百万フランもの大金を水に投げすてている。これは暗喩などではない。どんな具合に,どのような仕方で? 夜も昼も。何の目的で? なんの目的もなく。なにを考えて? なにも考えずに。なんのために? 無駄に。どんな器官をつかって? そのはらわたをつかって。そのはらわたとは? 下水道である。(中略)
 平野に肥料をほどこすのに都市をつかうなら,成功間違いなしだろう。わたしたちの金が汚い(フユミエ)ものなら,糞尿(フユミエ)は逆に金なのである。この金にもひとしい糞尿を,ひとはどうしているか? 深淵のなかに押し流しているのである。(中略)
 都市から不純物を排除していると思いこんで,住民の活力を削減しているのだ。排水渠など勘違いもはなはだしい。

ーヴィクトール・ユゴー『レ・ミゼラブル5 ジャン・ヴァルジャン』(平凡社ライブラリー)

 なんと,ユゴーはこの章で延々6ページにわたって,嘆きとも怒りともとれる文を書きつけ,そこから物語の舞台は下水道に降りてゆきます。とてもおもしろいところなので,『第5部ジャン・ヴァルジャン 第二篇水の巨獣(リバイアサン)のはらわた』(平凡社ライブラリー)をぜひ読んでいただきたいです。とにかく下水道の描写が詳細で本当に歩いてきたかのようなのですが(流石にユゴーが歩くことはなかったと思いますが),河好きのユゴーは下水道も好き?いや,大嫌いなようで,暗渠は魔のごとく描かれます。

 ところで,この散策の途中,水分補給のために立ち寄ったたばこ屋でおばあさんからお話を伺うことができました。話すこと小一時間。東京大空襲を見沼の台地から目撃したお話もとても興味深いもので書くと長くなりそう。けれどもこれは別の話,いつかまた,別のときに話すことにしましょう。

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(こちらは再整備工事前の通船堀西縁,二の関。測量などは終わっている様子でさあ着工というところで工事が延期となっていると思われます。ロープが張られているためあまり近づけませんでした。西縁沿いは草木がうっそう茂っているので東縁よりも歴史を感じさせますが,生きていたころは整備されていたでしょうし,陸から人力で綱を使って船を曳くことを考えると,やはり東縁のようにある程度ひらけていたのかもしれませんね。なお,おばあさんのたばこ屋はこの付近の表通りにあります。)

 おばあさんは『見沼通船堀』のお話もしてくださいました。東京大空襲のころに小学校低学年であったというおばあさんですから,『見沼通船堀』の廃止は生まれる前のことと思います。ところがおばあさんは,「通船堀も今はなくなっちゃったけど,昔はまだ船がとおっていてね…」と話し始めたのです。戦争中と戦後の話が交錯し行きつ戻りつを繰り返すなかで語られたお話はまとめると,
 ・裏の堀(通船堀のこと。たばこ屋さんの裏手に見沼通船堀があります。)から柴川をとおって隅田川に出ていたこと
 ・米や野菜を積んで売りに行き,帰りは砂糖などを買って帰ってきたこと 
 ・男共は浅草で女遊びと賭け事をしていたこと
など。
 おばあさんのいう「昔」がいつなのかはっきりとしないのですが,女遊びと賭け事という言葉がさらっと出てきたので,戦前の幼いころの思い出ではなく,ある程度ものごとがわかるような年齢になった以降かつ若い頃と推測します。もちろん,おばあさんがそのまたおばあさんから聞いたお話が記憶に残っていて私に語ってくれた可能性も否定はできません。
 しかし,もしかしたら『見沼通船堀』は公式には廃止になったあとも地元の人の交通手段として船がとおっていたのではないだろうか。戦後まもなく,まだおばあさんが娘さんだったころ,通船堀をとおって行商に出るものがいたのかもしれない。
 そう考えるもうひとつの理由は,おばあさんが今の復元された通船堀を「死んだ堀」,かつての船が往来していた通船堀を「生きている堀」として語っているように感じたからです。復元された通船堀を「生き返った」ととらえていない,その感覚は本当に「生きている堀」を見たひとにしかないものだろうと感じたのです。
 おばあさんとは「また来るね。」と約束しましたので,お話を聞くことができるうちに伺って,聞き書を残しておきたいと思います。近隣を散策してほかのお年寄りからもお話を伺う機会に恵まれたら嬉しいですね。そして,『見沼通船堀』がいつまで生きていたのかという謎も解けたら・・。

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