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2回目のドライブマイカー鑑賞

「ドライブマイカー」の2回目を見に行った。その前に「偶然と想像」を見ていたこともあって、理解が進んだように思う。
ドライブマイカーにおいて、長々と行われる本読みの行為、車を走らせているときに話されるみさきの生き筋、みゆきの家のがれきの前で語られる主人公の懺悔。抑揚はなく、事実を淡々と口に出す行為、それ自体が解脱や自己理解につながる。誰かに何かを伝えたいという意図よりは、むしろ、ただ、発話する。その発話行為。ただ話すこと、そこにただある、存在する、それ自体の大きさ。

「偶然と想像」における、知らなかった人同士予期せず同級生だったと思いこんだ2人が、出会ってしまい、知らないが故に救いとなるような。先生を陥れようとした女学生がその陥れようとしたその行為こそが逆に彼女にとっての救いとなるような。

起こった出来事自体が意図とは違う仕方で行為者に影響を与える、偶然性とその明らかな物体性、身体性みたいなものをこれらの映画で表現したかったのではないかと感じた。行動することが大事と言えば陳腐だが、行為者はその身体で世界と向き合っている。ということがたぶん言いたいのだと思う。(そしてそれはどうしようもなく美しいということも。)よく分からない、茫然としてしまうような鑑賞後の感覚は解釈を意図的に置き去りにしようとした結果ではないだろうか。


最近読んでいた本がちょうどこのあたりの話をしていた。濱口監督のこの言いたいことを補完するのが思弁的唯物論であったりするような気がしてる。

相関主義の批判としての思弁的唯物論、その中でメイヤスーは、この世界がこうある理由は思考不可能(相関主義)ではなく、絶対的に理由はない無であるとした。ただ事実としてそうあるだけ。
他人他者も同様。解釈的なかかわりがなされると同時に、無関係にどうなるか分からない、無解釈的なモノでもあると。

「偶然と想像」における彼女らが偶々会ってしまったこと、会わなかったかもしれないが、ただ会ってしまったということ。「ドライブマイカー」におけるみさきと家福が出会ったこと、「ドライブマイカー」の撮影がコロナで国内の広島に偶然なったこと、それらが意味を持って(かつ無意味に)現実に立ち現れること。その出会いが物語を進める。ただそこにいたこと(=身体性)を言祝いでいる気がする。

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