(刃の眩み)第四話 異変

 その頃、町で不思議なことが起っていた。
 当時、町の郊外にはまだ畑や田んぼが点在し、何軒かの農家が細々と野菜や米などを作っていた。
 しかし農業だけで生活できる者はほとんど無く、皆、町に何らかの副業を抱えており、その田畑も住居から離れた郊外にあった。農民達はその不便をおして毎朝徒歩で畑に通っており、町民の起きる数時間前には畑への途についていた。

 それを見つけたのは農家の一人で、毛塚という名の中年の農夫だった。

 その朝は特に寒かった。
 呼吸の度に毛塚の鼻から、そして口から大量の呼気が白く抜け出ていく。昨夜の雪は凍りつき、道の両側に広がる暗い林の枝々に乗っている雪塊はその体積を半分にして凍り付いていた。
 滑りやすくなった泥道に長靴をとられながら歩いていた毛塚はやがて尿意を覚え、引きずっていた農業用の三輪車を止めると、まだ朝靄の濃く残っている林の中へと入っていった。

 下生えのほとんど無い、雪と土が斑に入り混じった地面をすこし行くと、やがて開けた場所に出た。毛塚はそこに立つ杉の根元に向かって、寒さで縮こまった自分のモノから勢いよく用を足し始めた。凍りついた大気に湯気を立てて流れる小便の音だけがよく響いた。
 そのうち先細ばっていった小便を毛塚はぼんやりと眺めていたが、身を震わせて最後の滴を落とすとズボンのチャックを閉め、そしてふと右手に目を向けた。
「ん?」
 最初、毛塚はそれを枯れた木材だと思った。
 奇妙だったのは、それがまるで小さなラグビーボールのような形であることだった。
 所々泥の付着したその物体は木材から削られたばかりのそれのように明るい茶色をしている。さらに数歩近づいた毛塚はぎょっとして足を止めた。
 
 ラグビーボールは、体毛をすべて剥がされた鳩であった。
頭部から尻まで、どんな小さな羽毛も徹底的に毟り取られている。薄茶色の肌に浮き出た、無数のボツボツとした突起には白い雪粒がへばりつき、それに泥や砂が混じり込んで気味の悪い斑点を描いていた。
毛塚は吐き気を抑えた。
それが人の手によって為されたものであるのは明らかだった。吐き気とは別に、その人物への嫌悪感が込み上げ、毛塚は靴の先でその屍骸を軽く蹴り上げた。バランスを失った屍骸はだらりと転がり、その腹部を上にして止まった。それを見た瞬間、毛塚はたまらず嘔吐した。

内臓を全て抜き取られた鳩の腹部、その深紅の空洞の中に、きれいに丸められた赤泥色の肉塊が収められていた。それが、その持ち主である鳩自身の内臓の全て― 胃、腸、肝臓、腎臓、心臓 ―そして脳さえ一緒に摩りおろされ、丸められた物であったことは毛塚の想像を超えていた・・・

毛塚は自分が目にしたことを誰にも話さなかった。
縁起の悪いことであったし、あれはどこか禍々しく、人に話すことによって毛塚自身にもその魔力が及ぼされるような物であった。
それから数日経ったある夜、毛塚はいつもの飲み仲間数人と酒場で飲んでいた。
最後に便所に行ったときに目をやった時計はまだ九時前を指していたが、それから何時間が経ったのか毛塚にはもう分からない。賑やかな酒場の喧騒に負けぬよう声を張り上げていた毛塚たち全員の呂律もかなり怪しくなっていた。
「おい、そういえばな、聞いたかい?」
板橋が突然、声をひそめて言い出した。
そこに居た全員が幼馴染であった。
皆、農家に生まれ、生まれた時から農業に携わることは当然のことであり、高校の卒業とともに、両親と共に本格的に農業を始めていた。その中でも板橋だけは遠く離れた農業大学に進学し、そこで栽培だけでなく畜産の勉強も修め、今では皆の相談役としてリーダー的な存在になっていた。
「どうもよ、ほら、三丁目の角の竹光さん。あのどでかい犬飼ってるとこあるだろ?あの犬がよ、この前行方知れずになったのよ。」
酒で赤くなった鼻をしきりに爪で掻きながら板橋は言った。
「でよ、こりゃ内緒の話だけどな、いや、娘さんに知られると困るって竹光さんが言っててよ。『ここだけの話』ってことで俺にだけ話してくれたんだよ。だからお前らも誰にもこのこと言っちゃぁいけねぇぞ。」
「何だよ、回りくどい。さっさと話したらどうだ。」
汗っかきの北村が、額に無数の汗の玉を浮かべながら、そして普段でも小さなその目を今ではトロンと半分ほども塞がせながら言った。
「ま、そう急くなや。念のためだよ、念のため・・・」
コップに残った焼酎を飲み干し、ボトルに手を出しながら板橋が北村に答えた。
「で、その犬だがよ。どうも殺されたらしぃんだよ。何でも、竹光さん自身でも自分んとこの犬だって分かるまでかなり時間がかかったってくれぇのひでぇやられようだったっていうぜ。」
毛塚のコップを揺らす手が一瞬止まった。蓋をしたはずのあの記憶が急速に吹き出ようとしていた。
「どこで見つかったんだぁそいつぁ?」
北村が聞いた。
「北の林の中だよ。あぁ!そういゃ、あそこはお前の畑に行く途中の道じゃねぇか?」
板橋が毛塚の顔を見た。
毛塚が青い顔で板橋に目を向けた。
「おい、もしかして竹光さん家の犬、毛を全部持ってかれたんぢゃねぇのか?」
「さぁ、そこまでは竹光さん言ってなかったけどな。けどよ、なんでおめぇがそんなこと知ってんだ?」
皆、不思議そうに毛塚に目を向けた。
「あのよ・・・」
コップにへばりつき、そのうち自らの重みに耐え切れずに次々と流れ落ちていく水滴をしばらく見つめていた毛塚は、やがて話し始めた・・・

(刃の眩み)第五話へ続く

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