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【読書ノート】職業としての政治

ロシアによるウクライナ侵攻を見ると、改めて国家の暴力性を思い知らされる。「暴力装置としての国家」と言えば、この本である。

ミュンヘンの学生団体に対して政治学者・社会学者のマックス・ヴェーバー(1864-1920)が行った講演をまとめた、言わずと知れた名著だ。筆者のような浅学には荷の重い本だが、復習としてまとめてみたい。引用はすべて脇圭平 訳(岩波文庫、2020年改版第1刷)によることとし、傍点は太字で表し、フリガナは大括弧([])内に表記することとした。

政治と国家の定義

政治とは何か。ヴェーバーはこの講演で政治を次のように定義している。

政治団体  現在でいえば国家  の指導、またはその指導に影響を与えようとする行為

p. 8

また、近代国家の定義は次の通り。

ある一定の領域の内部で  この「領域」という点が特徴なのだが  正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体

p. 9

このような国家が存続するためには、「被治者がそのときの支配者の主張する権威に服従することが必要」であるとし、その服従のメカニズムの分析に移る。

ヴェーバーによれば、国家による支配は内的な正当化の根拠と外的な手段とによって支えられている。

3種類の支配の正当性

被治者が支配者に正当性を認めるとき、そこには3種類の根拠が認められるという。いわゆる「支配の3類型」である。

  1. 伝統的支配:ある習俗が(それが遠い昔から通用し、慣習となっているがゆえに神聖化されて)もっている権威による支配

  2. カリスマ的支配:ある個人の「非日常的な天与の資質(カリスマ)がもっている権威」による支配

  3. 合法的支配:「制定法規の妥当性に対する信念と、合理的につくられた規則に依拠した客観的な「権限」とに基づいた支配」

ただし、これらの3つの支配類型は、あくまでも「純粋型」であり、現実の支配のあり方はこれらの「変容・移行・結合」であることに注意が必要である。

現下問題のロシアは一応法治国家であるから、3. 合法的支配 ではあるが、プーチン大統領の専制政治の確立には、2. カリスマ的支配 の要素も少なからず寄与したと思われる。一方、日本の場合、岸田首相には 2. カリスマ的支配 の要素はあまりないが、天皇が国家元首である所以は 1. 伝統的支配 にあるのではなかろうか。いずれにせよ、国家による支配がいずれかの類型のみにすっぽりあてはまる、というわけではないだろう。

3つの中でヴェーバーは、カリスマ的支配に注目する。なぜなら、「「天職」という考え方が最も鮮明な形で根を下ろしている」からだという。

継続的な行政の2条件と国家秩序の2類型

国家が継続的に支配を行うためには、3つの支配類型で見たような権威・権限だけでなく、外的な手段として次の2つが必要である。

  1. 人的な行政スタッフ
    支配者に対して服従するようにあらかじめ方向づけられた騎士や官吏などの人々。彼らが服従する動機として、物質的な報酬社会的名誉の2つが挙げられている。

  2. 物的な行政手段
    物理的暴力行使に必要な物財・行政手段(貨幣・建物・武器・車輛 etc.)。

ここで、人的な行政スタッフと物的な行政手段に着目すると、それらが互いに切り離されているか否かによって、国家秩序を分類することができる。例えば日本の場合、江戸時代には大名という「行政スタッフ」のそれぞれが独自の「行政手段」を所有していたけれども、明治の廃藩置県により両者が切り離された、と考えられる。

ヴェーバーにとって近代国家概念の本質は、この「行政スタッフ」と「行政手段」が切り離しが完全に貫かれている、ということだ。それは言い換えると、「ある領域の内部で、支配手段としての正当な物理的暴力行使の独占に成功」している、ということでもある。

政治を生計手段とする職業政治家の誕生

「行政スタッフ」と切り離されているか否かによって国家秩序が2類型に分けられたのと同様に、政治家も政治を収入源とするか否かによって2つに分けられる。ヴェーバーによると、「行政スタッフ」と「行政手段」の切り離しとともに、単に政治「のために」生きる政治家ではなく、経済的な意味で政治「によって」生きる政治家が誕生してきたという。

同じく政治を職業とするといっても、二つの道がある。政治「のために」(für)生きるか、それとも政治「によって」(von)生きるか、そのどちらかである。(中略)政治を恒常的な収入源にしようとする者、これが職業としての政治「によって」生きる者であり、そうでない者は政治「のために」ということになる。

p. 24

このように聞くと、政治「のために」生きる政治家の方が政治「によって」生きる政治家よりも、いいように思えるかもしれない。しかし、この点についてヴェーバーはしっかりとクギを刺している。

国家や政党の指導が、(経済的な意味で)政治によってではなく、もっぱら政治のために生きる人によっておこなわれる場合、政治指導者層の人的補充はどうしても「金権制的[プルトクラーティッシュ]」におこなわれるようになる。だからといって、もちろん、逆もまた真なりというわけではない。つまりこういう金権制的な指導の場合、政治的支配者層は政治「によって」生きようとせず、従って自分の政治支配を普通、彼個人の私的経済利益のために利用しようとしない、などと言っているのではない。もちろんそんな意味ではまったくない。第一そんなことを全然しないような階層など、これまでいたためしがない。

pp. 26-27

金権制的な指導者が自分の個人的利益のために政治を利用しなかったためしはない、とかなり手厳しい。一方で、金権制的でない方法で政治関係者を補充するためには、政治によって確実な収入が得られる必要があり、その意味で政治家が報酬を受け取るのは正当だろう。中には「身を切る改革」などと称して議員の報酬削減を訴える政党もあるが、その意味をよく分かってやっているのだろうか?

官吏制度の発達と指導型の政治家の誕生

今日、政党指導者が忠実な奉仕に対して与える報酬は、政党・新聞社・協同組合・健康保険組合・地方団体・国家における各種の役職である。政党間のすべての争いは本質的[ザッハリッヒ]な目標をめぐる争いだけでなく、とりわけまた、官職任命権[パトロネージ]をめぐる争いでもある。(中略)官吏制度の普及によって官職の数が増え、生活の点でとくに安定したポストとして、それへの就職希望者が増えてくると、どの政党でもこの傾向が顕著になり、政党はその党員にとって、生計を立てるという目的のための手段にますますなってくる。

pp. 29-31

経済的な意味で政治「によって」生きる政治家にとって、何らかのポストに就くことは非常に重要である。ポストにありつけなければ、食べていけないからだ。このため、政党は単に政治的な目標のために選挙戦を戦うだけでなく、ポストの獲得を懸けて戦うようにもなる。そうなると、政治家はポストについたら満足して何もしなくなるのではないかという懸念が生じるが、引用個所に続いて、ヴェーバーはこのように書いている。

ところがこういう傾向に対立しているのが、近代的な管理制度の発達である。長期間にわたる準備教育によってエキスパートとして専門的に鍛えられ、高度の精神労働者になった近代的な官吏は、他方で、みずからの廉直の証しとして培われた高い身分的な誇りをもっている。もし彼らにこの誇りがなかったら、恐るべき腐敗と鼻もちならぬ俗物根性という危険が、運命としてわれわれの頭上にのしかかり、それによって、国家機構の純技術的な能率性(経済に対するこのような国家機構の重要性は、とくに社会化の進展につれて絶えず高まり、今後もますます高まっていくであろう)までが脅かされることになろう。

p. 31

行政の能率性が官吏の「廉直」さにかかっているというのは、なんとも心もとない話である。もともと官僚養成機関である東大の学生が官僚を目指さなくなったとも聞くが、「高い身分的な誇り」は失われつつあるのかもしれない。

また、管理制度の発達とともに登場したのが「指導型の政治家」である。

ところでこの専門訓練をうけた官吏団の台頭と時を同じくして  はるかに目立たない推移過程を辿りながら  「指導型の政治家」の方も登場してきた。(中略)一人の政治指導者が、内政を含む一切の政治を形の上で統一的に指導することがどうしても必要であり、また避けられなくなったのは、立憲政の発達以後のことである。

pp. 32-33

この「指導型の政治家」というのは、イギリスでは首相であり、アメリカでは大統領に相当する。日本でも大日本帝国憲法発布(1889)の少し前に内閣制度が発足(1885)して伊藤博文が初代の総理大臣に就任している。

生粋の官吏は政治的に無責任?

ヴェーバーの話はしばしば脱線するが、脱線の方が本線より面白いのはよくあることだ。次に、ヴェーバーの官吏についての意見を見てみたい。まずは公務員の分化の話。

政治が「経営[ベトリープ]」にまで発展し、近代政党制の下でおこなわれたような権力闘争と闘争方法のトレーニングが必要になってくると、公務員が専門官吏と「政治的」官吏の二つの範疇に分かれて来た。  この区別は決して厳格なものではないが明らかに別の範疇である。本来の意味での「政治的」官吏は普通、彼らの異動・罷免・「休職」がいつでもおこなわれ、任意におこなわれるという点で、外から見分けがつく。

pp. 36-37

引用中の「経営[ベトリープ]」は「一定種類の継続的な目的行為」という程度の意味だそうである。日本の場合は、総理大臣や国務大臣、国会議員や地方議会議員などの特別職の公務員がここでの「政治的官吏」に相当し、そのほかの一般職の公務員が「専門官吏」に対応するだろう。ヴェーバーは「生粋の官吏」を説明することで、彼らが遵守すべき原則とともに、政治指導者のモラルについても熱弁をふるっている。少々長くなるが引用する。

生粋の官吏は(中略)その本来の職分からいって政治をなすべきではなく、「行政」を  しかも何よりも非党派的  なすべきである。この非党派的な行政という原則は、「国家理性」、すなわち現存支配体制の死活的利益がとくに問題になっている場合は別として、少なくとも建前としては、いわゆる「政治的」行政官についても当てはまる。官吏である以上、「憤りも偏見もなく」職務を執行すべきである。闘争は、指導者であれその部下であれ、およそ政治家である以上、不断にそして必然的におこなわざるをえない。しかし官吏はこれに巻き込まれてはならない。党派性、闘争、激情  つまり憤りと偏見  は政治家の、そしてとりわけ政治指導者の本領[エレメント]だからである。政治指導者の行為は官吏とはまったく別の、それこそ正反対の責任の原則のもとに立っている。官吏にとっては、自分の上級官庁が、  自分の意見具申にもかかわらず  自分には間違っていると思われる命令に固執する場合、それを、命令者の責任において誠実かつ正確に  あたかもそれが彼自身の信念に合致しているかのように  執行できることが名誉である。このような最高の意味における倫理的規律と自己否定がなければ、全機構が崩壊してしまうであろう。これに反して、政治指導者、したがって国政指導者の名誉は、自分の行為の責任を自分一人で負うところにあり、この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、また許されない。官吏として倫理的にきわめて優れた人間は、政治家に向かない人間、特に政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では、道徳的に劣った政治家である。こうした人間が  残念ながらわがドイツのように  指導的地位にいていつまでも跡を絶たないという状態、これが「官僚政治」と呼ばれているものである。

pp. 46-47

この記述を読むと、日本の政治は「官僚政治」なのだろうと思ってしまう。「秘書がやったことで私は関知しない」とか、「記憶にない」とか、「責任はすべて私にあります(だからといって何もしませんが)」という無責任なセリフはもう聞き飽きた。また、官僚に責任を押し付ける政治家はヴェーバーの言う「生粋の官吏」を窒息させ、モラルを低下させ、ひいては「全機構が崩壊」させることになるだろう。

職業政治家の主要タイプ

続いてヴェーバーは職業政治家の主要タイプについて説明している。私が読む限り、ざっと7タイプ挙げられている。

  1. 聖職者

  2. 人文主義的な教養を身につけた文人

  3. 宮廷貴族

  4. 貴紳(イギリスのジェントリー)

  5. 大学に学んだ法律家

  6. 政治評論家、特にジャーナリスト

  7. 政党職員

このうち、最も新しいタイプが最後の政党職員であり、話題は「政党制度と政党組織の考察」に移る。

政党の歴史的経緯

地域と仕事の範囲の点で、地方的な小行政[カントン]地区のレヴェルを越えたかなり大きな政治団体において、権力者が定期的に選ばれるようになると、政治は必然的に利害関係者による運営という形をとる。すなわち、政治生活(つまり政治権力への参加)にとくに関心をもつ比較的少数の人たちが、自由勧誘という方法で部下を調達し、自分や子分を候補者に立て、資金を集め、票集めに乗り出すようになる。大きな団体でこういう運営がない場合、どうしたら選挙がてきぱきとできるというのか。

pp. 55-56

政党は選挙制度とともに始まったとすれば、政党が組織的に選挙で戦うプロであることもうなずける。逆に言えば、選挙制度がきちんと機能していない国では、事実上の一党独裁となるのも当然だろう。

ヴェーバーは最も近代的な政党組織を生み出したものとして、「民主制、普通選挙権、大衆獲得と大衆組織の必要、指導における最高度の統一性ときわめて厳しい党規律の発達」を挙げている。そして、

決定的なのは、こういう人間装置の全体  アングロサクソン諸国ではこれを「機械[マシーン]」などとうまい言葉で呼んでいる  というよりもむしろ、この装置を操縦する人間が、現職議員に挑戦して、自分の意思をかなり大幅に押しつけることができるという点である。そしてこのことは、党指導者の選択に対して特別に重要な意味をもつ。マシーンさえついて来れば、時には議会を無視しても指導者になれるからである。こういうマシーンの登場は、換言すれば、人民投票的民主制の到来を意味する。

pp. 62-63

つまり、政党が組織として議員の政治活動を大幅に統率できるがゆえに、(議会で多数派を占める)政党さえ掌握すれば、議会を無視してもリーダーとしてまかり通るようになる。なおかつ、多数派を形成するには「大衆獲得と大衆組織の必要」があるから、ポピュリズムの誕生は必然ということになるだろう。

人民投票的形態の台頭

つづいてヴェーバーは、人民投票的民主制に関して、イギリス、アメリカ、ドイツのそれぞれの事情を説明している。個人的に面白いのはドイツに関する次のような事情だ。

ドイツの議会政党は昔も今もギルドである。帝国議会の本会議でおこなわれる演説は、すべて事前に党内で徹底的に検討される。そのことは演説がひどく退屈なことからも分かる。あらかじめ演説者として指名された者でなければ発言できない。

p. 83

日本の国会中継も誰がこんなものを見ているのだろうかと思える退屈さである。日本の首相の演説を聞いて感動した経験がない。メルケルの演説には感動したのだが。

それはともかく、ヴェーバーは今後のドイツについて次のように述べている。

次のことだけは肝に銘じておく必要がある。人民投票的指導者による政党指導は、追随者から「魂を奪い」、彼らの精神的プロレタリア化  とでもいえそうな事態  を現実にもたらす、ということである。指導者のための装置として役立つためには、追随者は盲目的に服従しなければならず、アメリカ的な意味でのマシーン  名望家の虚栄心や自説に固執して、故障を起こしたりしないマシーン  でなければならない。(中略)これこそは、指導者による指導に対して支払われる当然の代償である。ところでぎりぎりのところ道は二つしかない。「マシーン」を伴う指導者民主制[フューラー・デモクラティー]を選ぶか、それとも指導者なき民主制、つまり天職を欠き、指導者の本質をなす内的・カリスマ的資質を持たぬ「職業政治家」の支配を選ぶかである。そして後者は、党内反対派の立場からよく「派閥」政治と呼ばれるものである。

pp. 85-86

ここで示されている二択のうち、安倍首相率いる長期政権の時代は前者に近く、その後は後者に近いのではないかと思う。どっちもどっちなのだが、こういったカメレオン的変わり身の早さが日本政治の混迷を告げているように思えてならない。

政治家の資質

続いてヴェーバーは、政治という仕事が政治家に与える内的な喜びとして「権力感情[マハト・ゲフュール]」を挙げている。つまり、「自分はいま他人を動かしているのだ、彼らに対する権力にあずかっているのだという意識、とりわけ歴史的な重大事件の神経線維の一本をこの手で握っているのだという感情」だという。では、政治家として権力を握るにふさわしい人物の資質とはどんなものだろうか。

政治家にとっては、情熱(Leidenschaft)  責任感(Verantwortungsgefühl)  判断力(Augenmaß)の三つの資質がとくに重要であるといえよう。ここで情熱とは、事柄に即するという意味での情熱、つまり「事柄[ザッヘ]」〔「仕事」「問題」「対象」「現実」〕への情熱的献身、その事柄を司っている神ないしデーモンへの情熱的献身のことである。(中略)情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力  これは政治家の決定的な心理的資質である  が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受け止める能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。

pp. 89-90

政治家の資質として情熱、責任性、判断力が挙げられているが、それぞれが互いに関係している点に注意が必要だ。特に重要なのは、「行為の決定的な規準」が情熱ではなく、責任性にあるというところだと思う。”情熱が一番大事であり、情熱をもってやった仕事なら結果がまずくても仕方がない”といった態度では困るのである。そして、責任性を規準にするためには、距離をおいて冷めた目で見る判断力が必要だ。しかし、問題は熱い情熱と冷静な判断力をいかに両立させるか、というところにある。

実際、燃える情熱と冷静な判断力の二つを、どうしたら一つの魂の中でしっかりと結びつけることができるか、これこそが問題である。政治は頭脳でおこなうもので、身体や精神の他の部分でおこなうものではない。ではあるが、もし政治が軽薄な知的遊戯でなく、人間として真剣な行為であるべきなら、政治への献身は情熱からのみ生まれ、情熱によってのみ培われる。しかし、距離への習熟  あらゆる意味での  がなければ、情熱的な政治家を特徴づけ、しかも彼を「不毛な興奮に酔った」単なる政治的ディレッタントから区別する、あの強靭な魂の抑制も不可能となる。政治的「人格」の「強靭さ」とは、何を措いてもこうした資質を所有することである。
 だから政治家は、自分の内部に巣くうごくありふれた、あまりにも人間的な敵を不断に克服していかなければならない。この場合の敵とはごく卑俗な虚栄心のことで、これこそ一切の没主観的な献身と距離  この場合、自分自身に対する距離  にとって不倶戴天の敵である。

pp. 90-91

情熱というアクセルと判断力というブレーキを併用するために克服しなければならないのが、「自分というものをできるだけ人目に立つように押し出したいという欲望」すなわち「虚栄心」である。虚栄心の全くない政治家などいないだろうが、それを克服するだけの資質がなければ困る。なぜなら、虚栄心に誘惑されてしまうと、「仕事の本筋に即しない態度」と「無責任な態度」の一方または両方に陥ってしまうからである。

信条倫理と責任倫理

まずわれわれが銘記しなければならないのは、倫理的に方向づけられたすべての行為は、根本的に異なった二つの調停しがたく対立した準則の下に立ちうるということ、すなわち「信条倫理的」に方向づけられている場合と、「責任倫理的」に方向づけられている場合があるということである。信条倫理(Gesinnungsethik)は無責任で、責任倫理(Verantwortungsethik)は信条を欠くという意味ではない。もちろんそんなことを言っているのではない。しかし人が信条倫理の準則の下で行為する  宗教的に言えば「キリスト者は正しきをおこない、結果を神に委ねる」  か、それとも、人は(予見しうる)結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則に従って行為するかは、底知れぬほど深い対立である。

p. 103

ここで有名な倫理的準則の2類型が示されている。信条倫理と責任倫理である。信条倫理家に言わせれば、「純粋な信条から発した行為の結果が悪ければ、その責任は行為者にではなく、世間の方に」あるか、もしくは「こういう人間を創った神の意志の方に」ある。一方、責任倫理家は「人間の平均的な欠陥のあれこれを計算に入れる」。したがって、「人間の善性と完全性を前提してかかる権利はなく、自分の行為の結果が前もって予見できた以上、その責任を他人に転嫁することはできないと考える」。

このように2分すると、どうしても信条倫理家というのは独善的で、結果がうまくいかなければ周囲のせいにするというのはやはり無責任ではないかと思ってしまう。少なくとも政治家として選ぶべきは、すでにヴェーバー自身が「仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す」と言っていたことから考えても、責任倫理家ではないのか。ところが、別の個所でヴェーバーはこう述べている。

たしかに、政治は頭脳でおこなわれるが、頭脳だけでおこなわれるものでは断じてない。その点では信条倫理家の言うところはまったく正しい。しかし信条倫理家として行為すべきか、それとも責任倫理家として行為すべきか、またどんな場合にどちらを選ぶべきかについては、誰に対しても指図がましいことは言えない。

p. 118

この個所を見る限り、ヴェーバーは政治家に対して責任倫理家たれ、とは言っていない。「べき」という当為の問題については口を噤んでいる。これはなぜなのだろうか。私にはヴェーバーはこの点についてうまく説明できていないように思えてならない。彼はあるところでは「信条倫理と責任倫理を妥協させることは不可能である」と言い、別の個所では「信条倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、むしろ両々相俟って「政治への天職」をもちうる真の[エヒト]人間をつくり出すのである」と言っている。絶対的な対立とまではいかないが妥協の余地のない2つの倫理を二刀流で用いる必要があるというのだ。

政治と暴力

先ほどの倫理の話とも密接にかかわっているのが、暴力の問題である。

自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は、これを政治という方法によって求めはしない。政治には、それとはまったく別の課題、つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある。

pp. 115-116

「政治に関するすべての倫理問題をまさに特殊なものたらしめた条件」、それは「人間団体に、正当な暴力行使という特殊な手段が握られているという事実」にある。

ロシアによるウクライナ侵攻は、この問題を現代の人々にとって新鮮なものにしたように思う。戦争や暴力は倫理的に正しくないことは異論がない。しかしだからと言ってロシアに攻め入られたウクライナに降伏するという選択肢は、少なくとも政治的には、ありえない。このため、ウクライナの人々は倫理的に正しくない戦争に否応なく巻き込まれ、多くの人命が失われる事態になっている。同じことはロシア側の兵士についても言えることだろう。ここに政治の倫理的なパラドックスが存在している。

およそ政治をおこなおうとする者、とくに職業としておこなおうとする者は、この倫理的パラドックスと、このパラドックスの下で自分自身がどうなるだろうかという問題に対する責任を、片時も忘れてはならない。繰り返して言うが、彼はすべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。

p. 115

戦争という事態を全く想定せずにいられるほど、政治家というのはラクな仕事ではない。プーチンを悪魔になぞらえる言説もあるが、政治家は元来、悪魔と付き合わなければならないのである。

この戦争がどのような経緯をたどることになるのか、もちろん素人には見当もつかないが、ロシアが今後苦境に陥っていくという予想は、単なる願望ではなく、妥当であるという気がしている。ヴェーバーの言を引く。

暴力によってこの地上に絶対的正義を打ち立てようとする者は、部下という人間「装置」を必要とする。そのためにはこの人間装置に、必要な内的・外的なプレミアム  あの世またはこの世での報償[ローン]  を約束しなければならない。そうでないと装置が機能しない。内的なプレミアムとは、現代の階級闘争という条件下では、憎悪と復讐欲、とりわけ怨恨と似而非倫理的な独善欲の満足、つまり敵を誹謗し異端者扱いしたいという彼らの要求を満足させることである。一方、外的なプレミアムとは冒険・勝利・戦利品・権力・俸禄である。指導者が成功するかどうかは、ひとえにこの彼の装置が機能するかどうかにかかっている。

p. 113

プーチンは部下やロシア国民にどんなプレミアムを用意しているのだろうか?戦争が長期化すればするほど、外的なプレミアムは遠のき、厭戦気分が広まれば内的なプレミアムもなくなるだろう。したがって彼はあくまでも「ウクライナの非ナチ化」という嘘でもって、「似而非倫理的な独善欲の満足」を目指そうとし、そして何よりも「勝利」というプレミアムを手に入れようと焦ることだろう。素人目に見て、こうした試みがうまくいくようには思えないのだが、最も恐れるのは、遠のいていく「勝利」を狙って、「窮鼠猫を嚙む」ような事態に至らないか、ということだ。端的に言って、「使えない兵器」であるはずの核兵器が用いられることを恐れる。ヴェーバーは知らないことだが、人類は究極の自殺兵器を開発してしまっているのだから、我々がこの兵器と賢明に対処できるように、そして世界平和が実現するように願ってやまない。

終わりに

本書の最も著名なフレーズは最後のパラグラフに現れる。こんな形で講演を締めくくられたらスタンディングオベーションがしたくなるような名演説だと思う。

政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、硬い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。(中略)自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が  自分の立場からみて  どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず![デンノッホ]」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職[ベルーフ]」を持つ。

p.122

現実の世の中が愚かであり卑俗であっても、という一節はそれがそのままヴェーバーのこの世界に対する感想であるようにも思える。「この世界がデーモンに支配されていること」、そういった世界にあって、「修練によって生の現実を直視する目をもつこと、生の現実に耐え、これに内面的に打ち勝つ能力をもつこと、これだけは何としても欠かせない条件である」、とヴェーバーは言う。

現代は幻想に浸ろうと思えばいくらでも浸ることのできる時代である。しかし、指導者であろうとする者ならば、幻想に浸り続けることはできない。ありのままの現実を直視することは、しばしば耐え難い営みである。「それにもかかわらず」、度胸と忍耐をもって真実と向き合わなければならない。年老いた悪魔とも付き合わなければならない。そして、自らの行為に責任を持たなければならないのである。

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