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教経オタク自己紹介

ただ、能登守教経という男を、知ってほしい。

そんな気持ちでこのnote(能登にこじつけた)にて教経についてなるべくソースのしっかりした情報を残したいと思い、書き留めていくことにしました。

教経との出会いは、高校での古典の授業でした。
平家に落ちる人はあるあるですね。
進路も決めかねていた高校生のわたくし、ある日古典の授業で能登殿最期を読み、なんかよくわからん交通事故にあったみたいな衝撃を受けます。

なんだこの平家の能登守教経っつー男は。

例によって平家=貴族化して没落した軟弱な武家
という失礼極まりないイメージを持っていたそれまでのわたくし。
見事に教経によってそのイメージはぶった斬られます。

ただの高校の授業の範囲で終わるのはあまりある熱量が一気に沸き上がり、調べられる限りネットやら図書館やらで教経のことを調べ、一通りの情報を得たものの、もっと教経・平家について学びたい!
願わくば、水中考古学を発達させて壇ノ浦で考古学調査ができないものか…!
そんな熱量が止まらぬまま、どうせ大学行くなら平家物語と歴史学からのアプローチができる教授がいて、且つ趣味のエジプト考古学ができる大学を狙い、晴れて願いが叶って進学。
大学合格のお祝いに初めて壇ノ浦行きで教経の墓前に「大学であなたをどこまで調べられるかわからないが、見ていてくれ」と予告してきたことも今では笑える思い出です。
合格祝いで壇ノ浦行きを用意してくれた親、理解がありすぎて感謝です。

卒論も有言実行の通り、教経にて書き納め、教経で学位を得た者です。ありがとう教経。

確かタイトルは「門脇家における平氏軍制と婚姻」とかそんな感じでした。
卒論にするには教経関連の資料が少なすぎて本当に苦労しました。
古典・国文学のアプローチならイケそうだが、教経オンリーにすると本当に資料が少なすぎてどうしても古典描写メインになりそうだったでした。
なんとしても日本史の中で、能登守教経が遺した爪痕について言及したかったので、教経の姉妹の婚姻関係も織り込んで門脇家としてタイトルを膨らませたのですが、まだ青臭い学生はその時頑張ってとりあえず形にできたかなぁと思います。

本当は史学研究の道に行きたい気持ちもあったのですが、世はリーマンショック後のわけわからん就職氷河期。
文系研究職に自分ではどうにも一歩踏み出せず、とりあえず就職し平家関係とは疎遠になってしまいましたが、大河ドラマ清盛や、その他平家関係のコンテンツがあったらお金を落とせるような、そんな生活をしばらく続けて、平家コンテンツから離れたり戻ったり。
大河清盛のNHKのイベントで、磯プロデューサーとのファンミがあったりして、特典などをいただいたのもすごく楽しかったです。
あの時の平家界隈の盛り上がりは一部分異常に異常に熱かったですね。
教経は宗盛のセリフ内で2回出てきたのを覚えています。(たしか一ノ谷と壇ノ浦)

SNSがまだなかった時代からうだうだと平家コンテンツを摂取し幾年か経ち、社会人生活に忙殺されている中、突発性難聴を患いました。
その名の通り本当にある日突然に。

幸いにも早期に治療ができ、今では完治しましたが、どう考えても仕事に忙殺され、何も心にゆとりもないまま息の詰まる生活をしていた時期でした。

ふと、「すっごい遠くに行きたいな」と思い、住まいの関東からなるべく遠いところ・・・!と思いついたのが

久しぶりに壇ノ浦に平家の皆々様の墓参りに行くか!
でした。
どうしてそうなるのか、平家オタク以外まったくわかりませんが(自分でもよくわかりません)そうと決まればその道すがらの平家スポットに寄って行くことにしました。
大学生のころから比べ物にならんSNSの発達で情報が拾いやすくなったものの、その情報の出どころがいまいちつかみきれない有象無象とした情報がうごめいている、そんなネットの大海を見ながら

「歴史学は足で書け」

日本史学専修出身の自分ができることは、自分で見て、まとめて、ネットにちらかった情報を整理し(否定するつもりは一切ありません)、ソース元をできる限り明らかにすることじゃないか?と思い至り、数年ぶりにボっと再点火した教経への、なるべく歴史学の側面も持たせながらアプローチをまとめたい…!
というのがこのnoteを初めた原点です。

私が教経で卒論を書いてからウン…年経ち、その間にも平家物語、歴史学の視点からの源平合戦へのアプローチは日々進化をし続け、新しい論文、解釈、資料が気が付けばぽつりぽつりと世に出ているではありませんか。
このnoteを、拙い学生があの時なりに一緒懸命アプローチした軌跡から拾えるものは拾い、ブラッシュアップできるものはアップデートし、インターネットの有象無象の中に転がってる情報を丁寧に一つづつ、拾い上げて行きたい。

これが、私から平家への弔いになるのかはわかりません。
そもそも、弔いとしてやりたい訳ではありません。
ただ、忘れないことが過去に対する弔いであるのならば、真実とまでは言わないまでも、なるべく情報の出所まではきちんと調べた、まとめあげ、せめて私の中だけでは生涯忘れないでいたい。

自己満足かもしれませんが。
そして、ここを見てくれている方は、少なくとも平家物語、能登守教経に興味がある方だと思っています。
ようこそ。
教経に関してネットで調べると、情報のとっ散らかりというか、どこの出典なのか、古典由来なのか歴史的な観点なのか、だいぶ混沌としていませんか?
私アマチュアどころか、ただの個人の教経ファンというだけではありますが、仮にも大学で歴史学へのアプローチを学び一応卒論をしたためた身ではありますので、「歴史の真実か」は置いといて、典拠が何か、を明記した上で情報を整理することに、多少なりとも心得はあると思います。

せめて、教経について私だけの自己満足な情報にするのではなく、典拠も含めて知って欲しい。
そんな気持ちでこのnoteを運営して行きたいと思います。

ちなみに難聴完治後の平家ゆかりの地を転々とする旅は、神戸→夜行フェリーにて門司→壇ノ浦→宮島というどこを切りとっても平家しかないめちゃくちゃパーフェクトな旅でした。
夜行フェリーにした理由は、平家都落ちに際し、おそらく船団での移動だったであろうと考察して、瀬戸内海を実際に船で行き、平家の気持ちを追体験しろ、というオタクにはたまらないシチュエーションをやりたかったからです。
めちゃくちゃ楽しかったです。

あくまで個人が見れた範囲を書きとどめておく備忘録という形ですが、ただ知ってほしい、能登守教経という男を。
水中考古学を発達させることはできなかったけど、義経に比べてあまりにも光が当たらないこの男を、知るだけでいい、ただ知ってほしい。
そんなシンプルな目的のため、日々更新していこうと思います。

以下宣伝ですがホームページ経由にてイラスト制作承っております。
メンズ作画が得意です。
https://xfolio.jp/portfolio/ori23ori
note掲載のイラストもすべて自作です。