いつか話した「世間」というものについての回答

 親愛なるAへ。

 私個人がキミから受けた恩恵に対しては、感謝しても仕切れないものがある。
 だからそこにあえて波風を立てるようなことを望まないのは、お互いの理解の一致するところだと思うが、私はここでもう一度キミとこれまでに繰り返してきた議論を振り返ってみようと考えた。それはもちろん、我々の議論をまとめるためではあるけれど、同時に今の時代のありようというものをいくらか記録しておく上で、いささかは価値のあるものと考えるからだ。

 数か月前に私がいった言葉を、キミはおそらく覚えていてくれるだろう。「この国に右だとか、左だとか、そんな思想上の区分はもういくらもしないうちになくなってしまうだろう」と。
 この予想は概ね当たっていたと思う。
 今やどちらの党派の人々も、自分たちこそがこの国を真に愛していると主張して疑わない。
 それどころか天皇や歴史という権威を振りかざしながら、互いに殴り合いながら、その実誰もそんなものに興味はないという始末だ。
 彼らのうちには冷静さも理念もなく、ただ荒々しい感情の発露と、その背後に見え隠れする傲慢さと、いやらしい商売熱が見え隠れしている。こんな論争だけが我々の世代に残された思想や精神というものなら、いっそすべてが燃やし尽くされてしまえばいいとさえ思う。
 
 こんな風にいうと、キミはたぶん誤解するだろう。
 それは私が社会の破滅だとか、革命志向の人々がお好きな社会のリセットというものを望んでいるのだろうという、例の誤解だ。
 勘違いしないで欲しいが、私は今の社会というもの、世間というものがけして嫌いなわけではない。
 むしろこの世間に特有の空気というやつは、いくらか私には好ましいものだと思っている。
  もちろんそこにはキミがいうような格差であるとか、見えざる差別であるとか、そんなものが含まれているのだけれど。そんなものはどうということはない。
 少なくとも、我々が生きているこの時代、そしてこの国は、これまでの人類の歴史の上にあらわれた社会の中でも最上のものであると固く信じている。だがこんな認識は、おそらく一度失われ、そしてそれが二度ともとには戻らないのだと気づくまで、多くの人には何らの実感もわくものではないだろう。

 すなわち、失われていくとき、誰もが失われていると気づかない瞬間にこそ、我々の安寧というものはある。

 そして世間の人々はそれを当たり前のように、それどころか一見して怠惰に過ごしている。
 キミはそうした世間の人々、この「空気」を作り出す大衆というやつが好きではなかったといつか私に話してくれた。
 何度となく言葉を交わしているうちに、私がキミとの社会であるとか、国家であるとか、そんなものの認識に対する根底の違いに気づいたのは、結局は「この世間」というものに対する態度の違いだということだ。
 以前、キミは私のことを「修道者のようだ」といったが、それは半分同意できるが、正しいといえないところもある。
 これは最近になって、よりはっきりとわかってきたことだが、私はどちらかといえば生来寂しがりで、いつも人々との交際を求めている部分と、規則というものが我慢できないほどに嫌いで、いつも今いる場所から離れてどこかへ行ってしまいたいという相矛盾した気質を備えている。ただ、この気質のうち、とくにその前者に長いこと私は気づかないでいた。それは孤独というものが大して苦にならないという、私の性格の故なのだけれど。

 だが、このところ以前に比べてよく人前にも出るようになってから、だいぶ考えを改めるようになった。それはキミのおかげによるところもあるのだが、歩くということがだいぶまた楽しくなってきた。
 前は興味も湧かなかった、電車の中で無数の人々がスマホをのぞき込んでいる光景も、孤独感というものが何よりも恐ろしい今の時代には似つかわしいものだと思うし、都心を歩いている着飾った人々の明るい顔は、それを見ている私の気持ちも軽くしてくれるから。
 ただ、今のところの自分はそうした人々の中へ積極的に入ろうという気が起こることもないし、それはこれからもそうだろう。

 人は結局、生まれ持った気質と生来付き合わなければいけない生き物だと思う。
 キミならきっと「気質は後天的なものにも左右される。環境や生活を人は選ぶことはできない」というだろうけれど。
 しかし、私はこれも何でもないことのように思う。おそらく赤ん坊の一人一人を見ても、個性というものが備わっているのと同じように、我々の気質は「ごく最初の段階」に与えられるものと決まっているから。

 さて、我々のことに話を戻そう。
 私の見るところ、キミの考えはあまりにも社会というものの持つ悲観的な側面を感じやすい。そしてそれは、人は本来他人と自分とを比べたがる性質を持っているというところに帰結するものだろうと思う。
 
 だからキミは世間があまりにも他人に無関心であるといって批判する。それも世間でいう弱者や差別といった問題がごく表面的な議論に終始するものであり、そのためにあまりにも多くの人々は取りこぼすと考えてさえいる。だからキミは無関心な世間の空気と同様に、リベラルを自認する人々の欺瞞に耐えられないのだが。
 これは結局キミの気質であるし、好ましいと思う一面もある。
 しかし私は反対に、むしろ世間というものがもっと他人に無関心であってくれればいいと思っている。

 一部の人々は社会の中に共同体というものは不可欠であると信じているようだが、私は徒党を組んだときの大衆ほど醜悪なものはないと思えてならない。
 それは今も連日SNSで行われている批判合戦を見れば十分だ。
 なんならあの右やら左やらの人々に共通する傾向を今ここで指摘してもいい。
 それは彼らが人を区別し、選定するということにおいてはまったく同質であるということだ。
 彼らのうちのある人々は、学歴で人を区別しようとしたり、あるいは自分がいくら稼いでいるといったことで、社会にどれだけ貢献しているかを説く。
 だが、社会を批判しそれを変えていこうとする人間が、現行の社会制度の中での優位性、つまり「自分がいかに社会で認められているか」を探り合いながら争うというのは、なんとも滑稽なものだろう。だが、反対にいえば、それくらい人間はいつでも他人と自分とを比べることに夢中なのである。
 だからこそ世間の干渉というものがこうした性格を前提にしている限り、どうしても強いつながりを求めれば同じくらいには世間も息苦しく、また侮蔑的な意味合いで人を評価し、選別するというものになり兼ねないことを恐れるのだ。
 とくにあの「自分たちが社会に差別されている」という人々には、うんざりとさせられる部分が少なくはない。
 同情というものは他人にこちらから求めていくようなものではないし、まして一度それを他人から受け取ってしまえば、二度と同じ場所には立てなくなる類のものであるから。
 ある人々は自虐的に日ごろから「自分はキモい、モテない」といった言葉を繰り返しているが、あれは盗人と変わらない。彼らの卑しさは、その容姿や、対人関係の拙さにあるのではなく、自分をまず弱者に置いたところから、若い女性たちを非難し、それを侮辱して満足を獲ようとするところにある。
 
 なるほど、自己責任という言葉は面白くないものだ。だが、自分が抱えている負債をそこらの他人に転嫁しようとする人間はなお品性に欠ける。

 もともとネットにはこうしたところがある。大量殺人犯であるとか、通り魔を「社会の犠牲者である」と信じて持ち上げようとする輩がそれだ。
 以前からキミのいうように、彼らは社会から阻害され、そして不遇な人間であることは私もその通りだろうと思う。しかし、そのいずれもが同情に値するべきものではない。
 ある地下アイドルの女性が、熱心なファンを自称する男に執拗に付きまとわれ、一方的な好意を向けられた上に、ついに刃物で刺されて重傷を負う事件があったのはまだ記憶に新しいところだと思う。
 
 もしもこの場合にその犯人の男が「モテない」、あるいは「行為を向けた相手に振り向いてもらえなかった犠牲者である」という擁護が成り立つと考える人間がいるとしたら、それはもはや狂気であろう。
 私が「無敵の人」であるとか、ああした言葉を嫌うのはだからなのだ。
 何らかの充足感を与えられない人間が犯罪に走り、それによって無関係な人間が一方的に傷つけられる行為をテロとはいわない。それは結局発作のようなものだから。
 
 もちろん、キミがこうした理屈に今更満足するとは思わない。
 ただわかって欲しいのは、世間であるとか、世論であるとか、そうしたものに善意が存在しないわけではないということだ。
 古い詩にあるように。

 自分の利益よりも他人の利益になることを喜ぶのは賢者である。
 自分の不利益にならない限り、他人の利益になることを喜ぶのは普通の人である。
 しかし、自分の利益にもならないのに、他人の利益になることを憎悪する人間がいるのはよくわからない。

 というのは、今も変わらない社会性というものであろう。
 そして世間の空気というのは概ねこの普通の位置にある。
 
 付け加えていえば、なぜわが国で思想運動というものが盛り上がらないかも結局はそこに理由があり、ある人々は自分の不完全性を棚に上げて他人にはより賢者らしい対応を求めているが、反対の党派に対してはよくわからない人間のように振る舞うのが常であるから。
 この点で、キミが敬服に値するのは、キミは少なくとも自分が賢者であろうとしているから。それはキミの天性の正直さと誠実さによるものだ。
 世間の賢さ、知恵というものは、残念ながら人の善性を容易くは評価してくれない。
 むしろ狡猾な人間を利口であると思うのが常のことだ。
 しかし世間は一方で、ある種の運動や集団が持つ醜さを見抜くことは非常に上手い。
 この点において世間がそうした運動に対して懐疑を持つこと。これにかけて世間が冷静であることを、私は健全な知恵であると思う。
 
 結局、連帯や共同体の論理は、同意と疎外とによって成立するものである(これは図らずも、そうした社会に批判的な運動ほどそれを実証しているのだが)。
 そして集団が行う疎外は、個人が行うそれよりもはるかに悪逆であることも確かだ。
 それを理解するのなら、少なくとも我々は世間というものを愚かだというべきではない。
 
 今、政治や社会運動に没頭している人々は、遠からず失墜していくだろうが、それも結局は彼らがそうした世間の性格を理解しないためなのだ。
 これはマスメディアにしても同様に、徐々にではあるが、世間の信頼を失っていくと思う。
 彼らは世間を盛んに扇動しようとするが、人は基本的に熱中しやすく冷めるのも早い。彼ら(マスメディア)の過ちは、ごく短期間の間に、ある人間なり、団体なりの権威を粉砕することには長けているが、ある方向に世論を導くにはそもそも不向きな自分たちの性質を理解できないところにあるといっていいだろう。
 とくに現在のような価値観の変遷が目まぐるしい時代にはなおさらそうだ。
 そして世間というものは、彼らが自分たちの望むものを与えてくれないと見ると、あっさりと捨て去ってしまう。これも結局は大衆性の故に過ぎないが、それもまたある種の強さであると思う。
 
 長々と語ってみたが、私はキミに何も世間を好きになってほしいとはいわない。
 しかし、より多くのインテリや活動家、弱者を自称する人々の中で、彼らが批判する世間よりもなお醜悪な部分が存在することを覚えていて欲しい。そしてこうした悪意に付き合うことで、キミが自分自信を傷つけることがないようにと願っている。

 来年はおそらく今年よりもなお慌ただしい年になるだろう。
 そして我々もまたそれに合わせて動き出さなくてはならない。しかし、ともに進むことができる仲間を得て、私はいささか嬉しい心持で新しい年が迎えられるのは本当だ。
 そのきっかけを与えてくれたキミにもう一度最大の感謝を。ありがとう。  

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