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自称道徳者の傲慢と貨幣プール論

人間には欲望があり、それを叶えることを目的とし、そして叶えられたらその状態を幸福と考えます。
ですので私は、経済学における経世済民の実現の根源的正当性(倫理的な基準)を「人間の最低限の欲望の充足」に置いて考えています。
人間の動物的本能の三大欲求はほぼ全世界の人間当てはまる「幸福の最大ベース」に当たるものであり、この考えに地理的要件をプラスすることで「国家」という集団組織が形成される、と考えています。

これは、イギリスの古典派経済学の人物で功利主義の大成者、「最大多数の最大幸福」という経済・政治理論を唱えた古典的自由主義論者のジェレミー・ベンサムの思想にも似ています。
これはつまり、主流派経済学に似ている主張です。

全く恐ろしいことに、経世済民を目指している以上、経済学における昨今の、格差を拡大することを肯定する竹中平蔵思想や、高齢者が集団自決することを推奨する不道徳な成田悠輔思想も、出発は「経世済民を目指した結果」であるというのが事実です。
勿論途中誤って修正をしていないので唾棄すべき思想になり果てているのですが、その底面においては紛れもなく

善意

が内在している思想なのです。

この善意の原動力から、しかしながら2つの流れができます。

①主流派経済学は経世済民の善意を実現したい。「だから私の言う通り放任せよ!」

になるのに対し、

②ポストケインズ派経済学派は「だから人の善意を信用せず、コントロールせよ」になる。

①も②も目指しているのは、貧困層の撲滅としての経世済民学、経済学です。

にもかかわらず、この最後の最後での手段の書き違えは一体何が原因でしょうか?

私は①の考え方は
道徳の難しさと、支配者として道徳的施策を供給しようとする、経過の省略を
感じてしまいます。

例えば…
とある富裕層的な主流派経済学的な思想の一端を私が妄想逞しく表現してみるとこうなります。

最も早く、幸福を貧困者に供給したい、という自分の道徳的な思想は崇高なものである。
故に、その自分の道徳性に疑いの余地はないので、

貧困者にとっての本当に幸福な施策が何なのかの考察は省略しても構わない

だって道徳的な私が考えた幸福なんだもの。
だからその私が考えた道徳的な幸福は貧困者が実際に何をどうして欲しいか?何を実際に求めているか?、という経緯を無視して速やかに社会に供給されなければならない。

貧困層が貨幣を求めている?
いや、私の道徳的見地から考えるに本当の富とは貨幣ではなく「小麦や木材」といった実物の富の方なはずだ!
だから、もっと生産をすれば必ず貧困層にも富は行き渡るはずだ!(セイの法則)
儲けて得た貨幣はだから
「さらに実物の富を生産増加するために使って貧困層には渡さないようにしよう!」
全く俺の頭脳は最高に冴えているぜ!

そうだ、こんなに素晴らしい冴えた頭脳の私が支配者になって貧困者に供給すればよいのではないか?


このようにあっという間に、道徳的な人間の道徳的な施策が、支配者側(供給者側)から貧困者(需要者)に供給される理論が正当化されます。

これに、実際、有名大学などに通った、賞を取った、世界的大学の助教・教授にもなった、大臣になったなどの権威が紐づけば、「自分は道徳的にも頭脳的にも素晴らしい」という点はますます疑わなくなります。

この時点で「自分の道徳的な幸福を貧困者に速やかに供給する」ことは彼らにとって至上命題になります。
そして、

自分の道徳だけを至上と考えることから
「不必要」と考えた切り捨てた(省略した)それは
道徳に反することだったとしても
道徳的な私の判断なのだから「必要悪である」となります。
「だって道徳的な自分が最終的な道徳を目指して実行するのだから」
ということで「問題はないよね?」となります。

この時、経済学において非常に便利な理論が

「商品貨幣論」「貨幣プール論」

です。

これらは権力者(供給者)がプールから貨幣を汲み上げて、貧困者(需要者)に分配する、という

権力者が上位に立ち、貧困者に施しを与える、という理論を支える貨幣論となります。


そこには需要者が信用創造を行って貨幣を発行し、それにより実質的富を享受するという「有効需要の原理」の欠片も想定はしていません。

この傲慢性はマルクス経済学にも共通しています。

ポストケインズ派の「だからコントロールせよ」というのは、需要をコントロールせよ、ということではないのです。

「供給者の道徳を振りかざした傲慢性を需要者の欲望によって抑制せしめよ」

ということなのです。

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