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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/「3」天才打者が歴史を作り、巧打者が続く系譜】

割引あり

(写真 左から・現在の14代・角中勝也、3代・天才打者と言われた榎本喜八、5代・日本シリーズMVPの弘田澄男、榎本に次ぐ13年3を背負ったサブロー)


(3)「3」天才打者が歴史を作り、巧打者が続く系譜

 初代・今久留主功、2代・ハワイ出身の北村正司と好守の系譜でスタートした背番号3は天才打者・榎本喜八がチームの顔となる番号に育てた。今でも榎本の数多くの高卒新人記録は球界に輝いている。
 その後、弘田澄男、西村徳文、サブローが引き継ぎ次ぎ、現在は角中勝也に引き継がれている。球団歴代通算打率ベスト10のランキングには3番の4人が名前を連ねている。

----- 現在の背番号「3」 -----

 ★《14代》2017(H29)年~現在・24年は8年目 角中 勝也(かくなか かつや) 外野手(在籍18年目)

  1987(S62)年5月25日生(入団時19歳)、右投左打
  石川・日本航空第二高‐独立R・高知(06)‐千葉ロッテ(07~)

 【角中 勝也 背番号変遷】61(10) ⇒ 3(7)
 2006年のドラフト7巡目で独立リーグ・高知から入団した角中勝也。5年間二軍で研鑽し、2012(H24)年に開花して中堅の定位置をつかみ、独立リーグ出身者として初の規定打席に到達、打率.312で首位打者のタイトルを獲得。16(H28)年にも.339で2度目の首位打者に輝いた角中勝也が引退したサブローの後を継いで、背番号を61から3に変更した。
 17(H29)年の序盤はケガもあり不調に陥ったものの、8月までは4割近い打率で打線をけん引し、.269、8本塁打44打点で終えた。翌18(H30)年は開幕から好調をキープ。6月には.395を記録して、自身初となる月間MVPを受賞した。しかし、徐々に調子を落とし、最終的には.265まで数字を落とした。19(H31)年5月11日には独立リーグ出身者として初となる1000安打、25日には1000試合出場を達成した。
 ケガに泣かされたシーズンもあり、徐々に出場試合数は減らしているものの、2023(R5)は86試合出場ながら.296をマーク。ベテランとして高い打撃技術は健在。2024年シーズンも打線の中心として期待されている。
 (23年シーズン終了時)
 ◆打撃成績<1393試合、打率.281、4566打数1284安打、66本塁打、539打点、66盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席<2007(H19)年7月24日・ソフトバンク14回戦/R(Yahoo!D)/2番中堅/3打0安>
 ◇初安打、初打点<2007(H19)年7月26日・ソフトバンク16回戦/R(Yahoo!D)/2番中堅/4打2安/初打点は適時打>
 ◇初本塁打<2008(H19)年4月16日楽天5回戦/H(千葉マリン)/2番中堅/ドミンゴから/3打1安>

 ※在籍時に獲得したタイトル
  ◆首位打者/2度(2012年、16年)
  ◆最多安打(2016年)
 ※在籍時に選出された表彰
  ◆ベストナイン/2度(2012年、16年/ともに外野手)
  ◆月間MVP(2018年6月/野手)
 ※在籍時に達成した記録
  ◇1000安打(2019年5月11日・ソフトバンク8回戦(ヤフオク!D)、史上297人目)
  ◇1000試合出場(2019年5月25日・ソフトバンク11回戦(ZOZOマリン)、史上498人目)

----- オリオンズ&マリーンズ「3」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1951(S26)年・2年 今久留主 功(いまくるす いさお) 内野手(在籍2年)

  1925年7月25日生(入団時24歳)、右投右打
  台湾・嘉義農林学校‐台湾専売局‐星野組‐毎日(50~51)‐近鉄(52~55)

 【今久留主 功 背番号変遷】3(2)
 社会人・星野組の主力だった今久留主功が初代の背番号3を背負った。ともに入団した兄・
淳(すなお)は2で兄弟で2、3番と並んだ。
 8番三塁で球団創設第1戦にスタメン出場し、プロ初安打、初打点を記録する。以降も三塁と遊撃を守り、首位を走るチームを支えるも兄・淳、河内卓司、奥田元らにスタメンを譲る試合が増える。しかし、8月に兄・淳が移籍すると、シーズン終盤は再び遊撃のレギュラーとしてチームを支え、初代パ・リーグ制覇に貢献した。日本シリーズでは第5戦まで無安打だったものの、最終第6戦で先制2点適時打を放ち打線を勢いに乗せ、日本一を手繰り寄せた。2年目の51(S26)年も併用起用されたが、オフに近鉄へ移籍した。

 ◆在籍時打撃成績<135試合、打率.219、306打数67安打、0本塁打、16打点、18盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席、初安打、初打点<1950(S25)年3月11日球団創設第1戦・西鉄1回戦/H(西宮)/8番三塁/4打1安/初打点適時打>


 ★《2代》1952(S27)年~1954(S29)年・3年 北村 正司(きたむら しょうじ) 内野手(在籍年)

 ※登録名は きたむら しょうじ だが、まさじと記された資料もあり

  1928(S3)年6月2日生、
  ハワイ・セントルイス高‐フォートコリンズ農工大‐ハワイ朝日‐毎日(52~54)

 【北村 正司 背番号変遷】3(3)
 ハワイ出身の日系二世。1951(S26)年に毎日球団中心のパ・リーグ選抜チームはハワイでキャンプを実施し、地元球団と試合を行ったが地元球団のハワイ朝日にいた北村正司と投手の守田政人を誘い、大学卒業を待って1952(S27)年の6月に来日、シーズン途中に入団した。
 初出場は7月25日の大映9回戦(横浜ゲーリック)に遊撃として途中出場。初打席では四球を選ぶ。26日の西鉄13回戦(土浦)に8番遊撃で初スタメンして初安打を含む2安打を記録。以降、1番にも座り4割を超える打率をマークする。しかし、徐々にバットは湿りがちになり、最終的に.205でシーズンを終えた。それでも、内野ならばどこでも守れるユーティリティーを活かし、2年目は111試合に出場して.241、リーグ最多の32犠打(当時のNPB歴代2位)を記録。3年目の54(S29)年は126試合に出場して117試合でスタメン出場。.214ながら、自身初の規定打席に到達した(リーグ44位)。しかし、理由は不明だが、このシーズン限りで引退した。

 ◆打撃成績<279試合、打率.222、905打数177安打、3本塁打、55打点、9盗塁>
 ◇初出場、初打席<1952(S27)年7月25日・大映9回戦/R(横浜ゲーリック)/途中遊撃/四球>
 ◇初スタメン、初安打、初打点<1952(S27)年7月25日・西鉄13回戦/H(土浦)/4打2安/初打点適時打>
 ◇初本塁打<1953(S28)年8月8日・西鉄9回戦/H(甲府飯田)/9番三塁/野口正明から>


 ★《3代》1955(S30)年~1971(S46)年・17年 榎本 喜八(えのもと きはち) 内野手(在籍17年)

 【野球殿堂入り】野球殿堂エキスパート部門(2016年)
  1936(S11)年12月5日生(入団時18歳)、左投左打
  東京・早稲田実業高‐毎日(55~71)‐西鉄(72)

 【榎本 喜八 背番号変遷】3(17)
 早稲田実業学校高等部で甲子園に3度出場した榎本喜八が入団。甲子園で派手な活躍はなかったが、55(S30)年のキャンプにテスト参加。別当薫監督やベテランの西本幸雄が驚くほどのバッティング技術を見せ、テストに合格しての入団。背番号は3を用意した。
 高卒ルーキーながらオープン戦で実績を残し、球団史上初めて、開幕戦に5番一塁でデビュー。開幕戦は無安打だったものの4打席目で敬遠され初四球を記録する。2戦目で初安打を含む2安打を放ち、一塁のレギュラーとなる。6月7日のトンボ3回戦(足利)で初めて3番に入って
からは3番に定着し、以降10年以上、オリオンズ打線の3番打者として数々の実績を残すことになる。最終的にルーキーイヤーは1安打足りず.298で打率3割は逃すが、打率、本塁打、打点の全てでリーグ10位以内に入り(本塁打はリーグ6位)、出塁率は山内一弘と中西太(西鉄)に次いでリーグ3位の.414を記録した。
 榎本が残した高卒新人の歴代記録は以下のとおり
・打率.298、・67打点、・232塁打、・10死球
 以上4つの記録は1986年に清原和博(西武)に破られるまでは歴代最高記録。
・139試合、・592打席、・490打数、・84得点、・146安打
・24二塁打、7三塁打(3人のタイ)、87四球、・5敬遠
・5犠飛、・出塁率.414
 以上11の記録は現在でも高卒新人記録として残っている。このうち87四球は新人の日本記録で、当時のパ・リーグ記録だった。打撃力に加え、選球眼の高さも際立った。文句なしの新人王に選出され、新人にして「安打製造機」と呼ばれる。
 2年目以降も主軸として、ミサイル打線の核として打線をけん引。しかし、5年目まで毎シーズン100安打以上を記録するも打率は3割に届かなかった。6年目の60(S35)年にリーグ最多の170安打を放ち、.344をマークして首位打者を獲得してリーグ制覇に貢献。ミサイル打線の中心となった。しかし、63(S38)年オフに田宮謙次郎が引退、山内がトレードで移籍、64(S39)年オフには葛城隆雄もトレードで移籍とミサイル打線は瓦解し、榎本が一人でけん引する。
 それでも、68(S43)年にはアルトマンとロペスの強力な助っ人が加わり、3番として打線をけん引し、7月21日には球団史上初の2000本安打に到達。NPB史上3人目の達成者となった(山内一弘が2人目だがオリオンズでは1516安打、移籍した阪神で到達した)。また、31歳7ヶ月での達成は現在でも最年少記録として残る(日米通算ではイチローが最速)。
 また、一塁の守備力も高く、守備でも数々の日本記録を残している。
 しかし、さすがの天才打者も年齢の衰えは隠しきれず、15年記録していたシーズン100安打もリーグ優勝した70(S45)には途切れ、翌71(S46)年には中日から移籍した江藤慎一が首位打者を獲得するなど好調で一塁手に定着し、自らは起用法に反発して二軍落ちするなど出場機会が急減して45試合の出場に留まった。何よりも精神的な不安定さがあったため球団側は引退を要請したが、現役にこだわる榎本は移籍を希望し西鉄に移籍した。しかし、そのシーズンが現役最終年となった。

 ◆在籍時打撃成績<2161試合、打率.299、7600打数2276安打、245本塁打、965打点、152盗塁>
 ◇初出場、初スタメン<1955(S30)年3月26日・近鉄1回戦/H(西京極)/5番一塁/3打0安>
 ◇初安打<1955(S30)年3月29日・東映1回戦/R(後楽園)/5番一塁/4打2安>
 ◇初打点<1955(S30)年3月30日・東映2回戦/R(後楽園)/適時打/4打1安>
 ◇初本塁打<1955(S30)年4月2日・トンボ1回戦/R(川崎)/5番一塁/大庭宏から>
 ◇オールスター出場/12回(55,56,57,58,59,60,61,62,63,64,66,68)

 ※在籍時に獲得したタイトル
  ◆首位打者/2度(1960年、66年)
  ◆最高出塁数/2度(1960年、66年)※タイトルは1962年から
  ◆最多安打/4度(1960年~62年、1966年)※当時は連盟表彰なし
 ※在籍時に選出された表彰
  ◆新人王(1955年)
  ◆ベストナイン/9度(1956年、59年~64年、66年、68年)※一塁手部門で通算9度受賞はパ・リーグ記録、6年連続受賞はパ・リーグ最長記録
  ◆オールスターゲームMVP(1966年/第2戦)
 ※在籍時に達成した主な記録
  ◇1000安打(1961年9月27日・阪急26回戦(後楽園)米田哲也から、史上38人目)※24歳9か月での達成は史上最年少記録
  ◇1000試合出場(1962年6月20日・東映13回戦(東京)、史上70人目)
  ◇100本塁打(1962年9月30日・東映26回戦(後楽園)尾崎行雄から、史上26人目)
  ◇1500安打(1964年9月25日・南海30回戦(東京)合田栄蔵から、史上15人目)※27歳9か月での達成は史上最年少記録
  ◇1500試合出場(1965年10月11日・南海30回戦(東京)、史上19人目)
  ◇300二塁打(1966年4月19日・近鉄1回戦(日生)佐々木宏一郎から、史上6人目)
  ◇150本塁打(1966年5月18日・南海8回戦(東京)森中千香良から、史上22人目)
  ◇350二塁打(1968年5月5日・近鉄3回戦(東京)鈴木啓示から、史上4人目)
  ◇1000得点(1968年6月8日、史上4人目)
  ◇2000安打(1968年7月21日・近鉄17回戦(東京)鈴木啓示から、史上3人目)※31歳7か月での達成は最年少記録(日米通算ではイチローが最速)
  ◇200本塁打(1968年8月4日・東映17回戦(東京)宮崎昭二から、史上16人目)
  ◇2000試合出場(1969年10月12日・南海25回戦(大阪球場)、史上3人目)
  ◇400二塁打:1970年10月15日・南海25回戦(大阪)三浦清弘から、史上3人目)
  ◇3500塁打(1971年7月8日・近鉄16回戦(東京)清俊彦から、史上5人目)
  ◆通算409二塁打(1955年~72年)※当時のパ・リーグ記録、現在歴代11位
  ◆5年連続シーズン150安打以上(1960年~64年)※当時のパ・リーグ記録、現在もパ・リーグ歴代2位タイ
  ◆入団以来15年連続100安打以上(1955年~69年)※当時のパ・リーグ記録、現在もパ・リーグ歴代2位タイ
  ◆入団以来12年連続20二塁打以上(1955年~66年)
  ◆49試合連続出塁(1966年7月15日~9月27日)※当時のパ・リーグ記録、現在NPB歴代8位タイ
  ◆打率ベストテン入り/10度(1955年、56年、60年~64年、66年~68年)※当時のパ・リーグ記録、現在NPB歴代9位タイ、パ・リーグ歴代2位タイ
  ◆シーズンリーグ最多四球/4度(1955年、56年、64年、68年)※当時のパ・リーグ記録、現在パ・リーグ歴代2位タイ
  ◆シーズン173打席連続無三振(1964年6月30日~8月25日)※当時のパ・リーグ記録、現在パ・リーグ歴代5位
  ◆シーズン一塁手守備機会 1665回(1956年)※現在も日本記録
  ◆シーズン一塁手刺殺 1585回(1956年)※現在も日本記録
  ◆シーズン一塁手補殺 122回(1965年)※当時は日本記録、現在はパ・リーグ記録
  ◆シーズン一塁手守備率.9992(1968年)※当時は日本記録、現在はパ・リーグ記録
  ◆シーズン一塁手守備機会連続無失策 1128回(1968年4月6日~9月3日)※現在も日本記録
  ◆一塁手守備機会連続無失策 1516回(1967年8月13日~68年9月3日)※当時は日本記録、現在はパ・リーグ記録
  ◆オールスターゲームで満塁本塁打(1963年7月23日)※史上初


 ★《4代》1972(S47)年・1年 フランク ジョンソン 外野手(在籍1年)

  1942(S17)年7月22日生、右投右打
  米・ベルエア高‐SFジャイアンツ(66~71)‐ロッテ(72)

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