見出し画像

《無料》【マリーンズ略史 92~05/-01-千葉移転前夜】

(写真 左・1991年新装なった川崎球場、右・同年工事中の千葉マリンスタジアム)


(1)千葉移転前夜

 【ロッテオリオンズと川崎球場】

 1978(昭和53)年、仙台を本拠地と定めながら、交通事情から(東北新幹線は未開通)東京圏の球場を間借りしてホームゲームを開催していた5年間に終止符を打ち、川崎球場を新しい本拠地とした。前年まで、大洋ホエールズの本拠地であり、オリオンズも数試合開催していたが正式に我が家となった。
 しかし、大洋が横浜移転を決意したのは「老朽化」が要因の一つだった。1951(昭和26)年にグラウンドが完成、翌52年に内野スタンド、1954年(昭和29年)に照明塔が完成と徐々に本格的な野球場としての様相を整えていったが、戦後、資材不足の中、川崎市内に工場を置く日本鋼管、東芝、昭和電工などの企業から資材提供を受けて完成した球場だったが、戦後の混乱期に資材をかき集めて完成した球場は30年が経過し、様々な箇所に不便さが生じていた。

 川崎市は大洋が移転してロッテが本拠地としたことに当初は積極的な支援を打ち出していた。しかし、老朽化は如何ともしがたく、それを承知している川崎市側からも「新球場建設」の話しはいくつも出ていた。「隣接する競輪場とともに建て替え、球場と競輪場の併用」や「市に返還される操車場の再開発地に建設」など話は尽きなかった。具体的に現状の地に建て替えを計画し、外野スタンドが無い内野スタンドだけで3万人収容という、具体的な「デザイン案」が出回ったこともあった。しかし、時間の経過とともに、いくつも出ては消えていた。ファンの間からは「閉鎖した東京球場をそのまま持って来られないものか」と冗談とも本気とも取れる声も出ていた。

 川崎市側も球団からの要請を受け、室内練習場の新設やロッカールームの改修等を実施したものの、小手先だけの改修では次から次へと改修箇所が出て来るばかりだった。
 球場の老朽化に加え、観客の少なさも深刻な問題だった。現在のような「地域密着」を基本に展開していれば、住宅密集地の中に存在していただけにそれなりに集客もあったただろう。しかし当時はプロ野球にスモールマーケットの考えはなく、親会社の知名度向上が第一という時代だったことも不幸だった。当時、球場に来る子どもの多くが巨人の帽子をかぶっている時代だった。子ども会が浸透して、ようやくロッテの帽子をかぶる子どもが多くなったが…。

 【川崎からの移転表面化】

 そんな中、球団側が「川崎からの移転」を本格的に検討することになったのは当然のことだった。移転当時は大洋が本拠地とした横浜市から20試合程度開催の打診があったが、川崎市に配慮して断っていた。しかし、5年が経過し新球場の動きも具体化しないことから水面下で移転の模索を始めた。
 移転の具体的な動きが表面化したのは1983(昭和58)年のオフだった。新監督に稲尾和久氏が監督に就任したが、西鉄の鉄腕エースであり、監督をも務めた稲尾氏の就任に世間は驚いた。これは福岡市一部財界人と球団の接触によるものだった。
 福岡市は1950(昭和25)年の2リーグ制とともに西鉄ライオンズが参加し、その後クラウンライター、太平洋クラブと球団名を変えながらも福岡の球団として存在していた。しかし、西武ライオンズとなり所沢市に移転し、福岡及び九州がプロ野球球団不在地域となっていた。この状況に危機感を覚えた福岡市の一部有力者からロッテ球団に移転の打診があり、その一つが稲尾監督の就任だった。稲尾氏も就任に当たり「福岡移転を前提条件として要請を受けた」ことを明かした。
 加えて、親会社のロッテ本社も韓国の事業に力を入れている時期でもあり、韓国とフェリーの定期便も出ている福岡に本拠地を移すことは悪い話ではなかった。球団側も稲尾監督も「3年後の移転」を仄めかしていた。

 ところが、その3年後の1986(昭和61)年、稲尾監督は辞任した。退任後、稲尾は辞任理由を明らかにした。「昭和60年にも、といっていた球団移転はどうなってしまったのか。『私は九州移転の用意があるということで、ここに来させていただきました。(球団からもう少し待ってくれと言われ)もう少し待ってもいいですが、今度は何年先に移るという覚書を下さい』(中略)球団からは明確な返事はなかった。本社筋の合意ができていないらしい。『それではやめさせていただきます』」。
 ほぼ確定事実だと誰もが思われていた福岡移転が全く進展していないことが明らかになった。これについては当時3つの噂が囁かれた。一つはあくまでも東京周辺に本社が拘りを持っていたこと。二つ目は川崎市側が新球場建設に向けて動き出したこと。そして、三つ目に千葉で新球場建設の話しが浮上し、千葉と福岡を天秤にかけているのではないかと囁かれていた。

 【千葉移転が急浮上】

 その中で千葉市の球場建設の動きが急進展した。球場建設が正式に決まり、1988(昭和63)年1月に起工した。その動きを察知して川崎市もJRに貸し出していた「新鶴見操車場」(現在の横須賀線・新川崎駅周辺)の川崎市への返還が決まり、その再開発計画に「ドーム球場建設」を加えることが明らかになった。しかし、千葉市の新球場は工事が始まり、1990年(平成2年)2月の竣工が目前なのに対し、川崎市はあくまでも「計画」の域を脱していなかった。加えて福岡は88(S63)年に南海を買収したダイエーが移転することが決まり、「千葉移転」が本格化するのではないかと言われようになった。

 千葉の新球場は「ヤクルトが移転する」との噂も立った。本拠地としている神宮球場は伝統の大学野球のメッカであり、スケジュール的にもそちらが優先されることが多く、具体的な移転時期まで記事にするメディアもあった。ただ、神宮という地に対してヤクルト本社は愛着を抱いており「準本拠地ならば」と移転に対しては否定していた。
 ただ、移転後に明らかになったが、水面下で千葉市とロッテ球団は建設前から接触していた。稲尾監督の退任時には「川崎新球場か千葉新球場か」の二択に絞っていたと思われ、この時点で福岡移転はほぼゼロになっていたと推察できる。

 そして、千葉新球場の建設が始まると、ロッテの千葉移転が本格的に浮上する。1988(昭和63)年6月には「ロッテオリオンズ」という名指しは無いものの、翌年3月に完成するのを控え「千葉にプロ野球を誘致する県民会議」が県民・市民や県内政財界関係者によって結成され、プロ野球誘致を求める署名運動が開始され「オリオンズの千葉移転」が本格的な話題になっていた。そしてオフに入った11月24日、松井静郎社長が1991年シーズンからの移転に前向きな姿勢を見せ、千葉への本拠地移転に向けて動き出した。

 【1991年移転が一転白紙も92年移転を表明】

 千葉マリンスタジアムという名称で1990(平成2)年3月24日、巨人主催で巨人対ロッテのオープン戦が開催され、これがこけら落としとなった。松井球団社長が91年と明言したことにより、一気に移転話は進展するものと思われた。ところが、シーズンに入ると一転急ブレーキがかかった。千葉マリンは幕張海浜公園の中にあるが、公園は千葉県、球場部分は千葉市が県から敷地を借り受け、市が建設したものだった。市は誘致に積極的に動いていたものの、県側が「公共施設である以上公共性を重視」とプロ野球球団の本拠地化に慎重姿勢を崩さなかった。加えて川崎市も巻き返しを図る。現状の川崎球場を約2億円を投じて人工芝化、スコアボードの電光化、スタンドの改修等大幅改修するとともに、前述の新川崎駅再開発事業に新球場建設を正式に加えた。最終的に千葉県は理解を示し、千葉市とともに誘致を行うことになったが、球団側は態度を保留。松井球団社長は「91年からの移転の断念」を表明し、千葉移転については一転「白紙」を強調した。
 これは私の個人的な見解だが、1年延期したのは千葉県に対する抗議もあったが、全面改修した川崎市への恩義の意味もあったのではないかと思っている。

 91年は千葉マリンで1試合だけ主催試合を開催することが明らかになったが、表面的には動きが止まったように見えていた。しかし、水面下では着実に移転に向けた準備を整えていた。
 そして7月31日、ナイターで主催試合が千葉マリンで開催されるその日、オーナー会議が行われ、重光昭夫オーナー代行(当時社長代行、92年からオーナー代行)が「1992(平成4)年から千葉市を本拠地とする」旨を正式に発表した。

 【千葉移転に向けて】

 重光オーナー代行は「保護地域を神奈川県から千葉県に移し、専用球場を川崎球場から千葉マリン球場へ移す。プロ野球ファンの底辺拡大に寄与したい。地元に歓迎される新しい球団を作ります」と表明。チーム名を「千葉ロッテオリオンズ」とすることも併せて明らかにした。
 そして9月1日、プロ野球実行委員会が開かれ、1992(平成4)年からのロッテの千葉移転が正式決定された。当初はオリオンズを継承すると重光オーナー代行は語っていたが、公募することを決め、新チーム名を「千葉ロッテマリーンズ」とすることを発表した。マリーンズ初代監督には、ロッテで活躍し完全試合も達成した八木沢荘六氏が新監督に就任した。
 12月には千葉市内でパレードを行い千葉ロッテマリーンズの歴史がスタートした。

(次回)⇒各年度の戦いを年度ごとに振り返ります。
《無料》(2)1992(平成4)年『千葉移転元年 4月ダッシュも最下位に沈む』


----- マリーンズ略史 92~05 INDEX ------

 【年度別出来事編】

【~1991(平成3)年】
(1)《全文無料》『千葉移転前夜』
  (25)《全文無料》 オリオンズ~マリーンズ ファンクラブ略史
【1992(平成4)年】
(2)《全文無料》『千葉移転元年 4月ダッシュも最下位に沈む』
  (42)《全文無料》移転直後の快進撃
  (57)《全文無料》5試合で4完封
【1993(平成5)年】
(3)《有料・冒頭試読》『最下位脱出も大差の5位に低迷』
  (54)《全文無料》1993年 NPB記録/リーグ記録/球団記録/珍記録
【1994(平成6)年】
(4)《有料・冒頭試読》『八木沢監督休養、2年連続5位に終わる』
  (60)《全文無料》1994年 NPB記録/リーグ記録/球団記録/珍記録
1995(平成7)年
(5)《有料・冒頭試読》『球団改革断行、千葉移転後初のAクラス』
  (21)《全文無料》風しん蔓延で主力が消えた14日間
  (45)《全文無料》胴上げ阻止、神戸3連戦
  (68)《全文無料》1995年 NPB記録/リーグ記録/球団記録/珍記録
【1996(平成8)年】
(6)《有料・冒頭試読》『投手充実も、得点力不足否めず5位低迷』
【1997(平成9)年】
(7)《有料・冒頭試読》『中盤反攻も迫力不足否めず最下位に沈む』
【1998(平成10)年】
(8)《有料・冒頭試読》『18連敗「七夕の悪夢」もチーム力は向上気配』
  (20)《全文無料》なぜ18連敗を喫したのか?
  (22)《全文無料》ユニホーム応援が広がったのはロッテから
  (33)《全文無料》黒木2冠と小坂の盗塁王騒動
  (70)《全文無料》1998年 NPB記録/リーグ記録/球団記録/珍記録
【1999(平成11)年】
(9)《有料・冒頭試読》18年ぶり「七夕首位」も、連敗喫して4位低迷』
  (18)《有料・冒頭試読》熱く育てた山本監督の5シーズン (1999年~)
  (28)《全文無料》18年ぶり首位「七夕の歓喜」狂騒曲
  (38)《全文無料》前半快進撃支えた「ボーリック神話」(1999年)
  (73)《全文無料》1999年 NPB記録/リーグ記録/球団記録/珍記録
【2000(平成12)年】
(10)《有料・冒頭試読》『4月出遅れ5割届かず5位低迷』
  (52)《全文無料》乱打戦で連夜の日本タイ記録
  (75)《全文無料》2000年 NPB記録/リーグ記録/球団記録/珍記録
【2001(平成13)年】
(11)《有料・冒頭試読》『世代交代、福浦首位打者、小林雅パ記録もエース後半離脱』
  (77)《全文無料》2001年 NPB記録/リーグ記録/球団記録/珍記録
【2002(平成14)年】
(12)《有料・冒頭試読》『開幕11連敗が響き借金5の4位に終わる』
  (39)《全文無料》あわや、開幕連敗記録に王手
  (79)《全文無料》2002年 NPB記録/リーグ記録/球団記録/珍記録
【2003(平成15)年】
(13)《有料・冒頭試読》『終盤に先発安定、9月快進撃も4位で山本監督辞任』
  (47)《全文無料》2003年 NPB記録/リーグ記録/球団記録/珍記録
【2004(平成16)年】
(14)《有料・冒頭試読》『ボビー復帰、新制度プレーオフ進出に0.5ゲーム差』
  (17)《有料・冒頭試読》「ボビーマジック」とは何だったのか(2004年)
  (19)《有料・冒頭試読》巻き込まれた、球界再編騒動
  (65)《全文無料》2004年 NPB記録/リーグ記録/球団記録/珍記録
【2005(平成17)年】
(15)《有料・冒頭試読》『プレーオフで逆転優勝、阪神破り31年ぶり日本一』
(16)《全文無料》(付録)『ポストシーズン詳細、二軍合わせて6冠王者成』
  (49)《全文無料》45年ぶりの12連勝(2005年)
  (62)《全文無料》2005年 NPB記録/リーグ記録/球団記録/珍記録
  (78)《全文無料》ファーム初の日本一(2005年)
【2006(平成18)年】
(番外編1)(80)《有料・冒頭試読》『第1回WBC8人選出もケガ人続出で4位に終わる』
(番外編2)(81)《全文無料》2006年 NPB記録/リーグ記録/球団記録/珍記録
【2007(平成19)年】
(番外編3)(82)《有料・冒頭試読》『ベテランと若手の融合、2位でポストシーズンへ
(番外編4)(83)《全文無料》2006年 NPB記録/リーグ記録/球団記録/珍記録
-------------------------

 【選手編/投 手】

(23)《有料・冒頭試読》チーム支えたエースの苦悶・黒木知宏(1995~2007年在籍)
(26)《有料・冒頭試読》ルーキーからフル回転左腕・藤田宗一(1998年~2007年在籍)
(27)《有料・冒頭試読》低迷期支えたエース、復帰後はリリーフで日本一・小宮山悟(1990年~1999年、2004年~2009年在籍)
(30)《有料・冒頭試読》抑えの切り札への道・小林雅英(1999年~2007年在籍)
(32)《有料・冒頭試読》マリーンズ初タイトル剛腕エース・伊良部秀輝(1988年~1996年在籍)
(35)《有料・冒頭試読》強気なマウンド、マリーンズ初代クローザー・河本育之(1992年~1999年在籍)
(37)《有料・冒頭試読》マリーンズ初の最優秀救援投手から手術へ…・成本年秀(1993年~2000年在籍)
(40)《有料・冒頭試読》7年目のブレーク「サンデー晋吾」(1994年~2013年在籍)
(43)《有料・冒頭試読》先発の柱サブマリン・渡辺俊介 (2001年~2013年在籍)
(44)《有料・冒頭試読》中継ぎ切り札から先発の柱へ・小林宏之(1997年~2010年在籍)
(47)《有料・冒頭試読》絶対的エースの信頼・清水直行 (2000年~2009年在籍)
(50)《有料・冒頭試読》球団創設年以来55年ぶりの快挙・久保康友(2005年~2008年在籍)

 【選手編/打 者】

(24)《有料・冒頭試読》二軍成長記・福浦和也(1994~2019在籍)
(29)《有料・冒頭試読》打線を支え愛された背番号6・初芝清(1989年~2005年在籍)
(31)《有料・冒頭試読》オリオンズ最後の戦士・堀幸一(1989年~2009年在籍)
(34)《有料・冒頭試読》マリーンズ初の新人王、盗塁王・小坂誠(1997年~2005年在籍)
(36)《有料・冒頭試読》「14打席連続出塁」の大記録樹立・南渕時高(1990年~1997年在籍)
(41)《有料・冒頭試読》裏から支えたバイプレーヤー・諸積兼司(1994年~2006年在籍)
(48)《有料・冒頭試読》千葉で途切れた連続記録・愛甲猛 (1981年~1995年在籍)
(51)《有料・冒頭試読》オリオンズ最後のタイトル・平井光親 (1989年~2002年在籍)
(66)《有料・冒頭試読》球団史上最強のスイッチヒッター・西岡剛(2003年~2010年在籍)
(67)《有料・冒頭試読》球団歴代2位、1089試合の強打捕手・里崎智也(1999年~2014年在籍)
(69)《有料・冒頭試読》主軸をつかんだ4年間・今江敏晃(2002年~2015年在籍)
(71)《有料・冒頭試読》日本一支えた左強打捕手・橋本将(1995年~2009年在籍)
(72)《有料・冒頭試読》つなぎの4番の軌跡・サブロー (1995年~2011年、2012年~2016年在籍)
(74)《有料・冒頭試読》ケガに苦しんだ現役生活・大塚明 (1994年~2010年在籍)
(76)《有料・冒頭試読》投手陣成長を裏で支えた捕手・清水将海 (1997年~2004年在籍)

 【選手編/助っ人】

(53)《有料・冒頭試読》中4日のタフネスエース・ネイサン ミンチー(2001年~2004年在籍)
(54)《有料・冒頭試読》「神話」と「ナイト」の勝負強さ・フランク ボーリック(1999年~2002年在籍)
(56)《有料・冒頭試読》安定感抜群の助っ投・エリック ヒルマン(1995年~1996年在籍)
(58)《有料・冒頭試読》 窮地を救ったストッパー ブライアン・ウォーレン(1998年~2000年在籍)
(59)《有料・冒頭試読》「いつか必ずロッテに帰ってくる」の約束果たした フリオ・フランコ(1995年、1998年在籍)
(61)《有料・冒頭試読》勝負強かったハワイアン・ベニー アグバヤニ(2004年~2009年在籍)
(63)《有料・冒頭試読》つなぎ役&勝負強さを兼ね備えた助っ人・マット フランコ(2004年~2006年在籍)
(64)《有料・冒頭試読》韓国の英雄が苦しんだ2シーズン・李承燁(2004年~2005年在籍)

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 150

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?