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◆読書日記.《佐藤大輔『ルポ死刑 法務省がひた隠す極刑のリアル』》

※本稿は某SNSに2021年12月29日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 佐藤大輔『ルポ死刑 法務省がひた隠す極刑のリアル』読了。

佐藤大介『ルポ死刑 法務省がひた隠す極刑のリアル』

 本書はぼくが今まで読んできた死刑制度に関する書籍の中でもとりわけバランス感覚に優れ、必要じゅうぶんな情報が揃っていた優れたルポルタージュであった。

 「死刑は存置か廃止か?」という結論ありきでなく、その可否の十分な議論ができるだけの情報提供に的を絞った点も優れている。

 本書を読めば、いつまで経っても日本で死刑が廃止されない理由が何となくわかってくる。

 それは、現代日本では一般に「死刑は存置か廃止か?」という議論をするだけの「情報」が、全く足りていないという事である。

 だから、死刑について多くの人が「死刑にしろ!無期懲役なんて生ぬるい!」的な「感情論」でしか議論ができなくなってしまっているのである。

 なぜ世間に情報が少ないかと言えば、それは日本の行政が死刑に関するあらゆる情報の公開を拒み、「プライバシー」を理由に死刑の実態を明かす事を頑なに拒んでいるからである。

 いわば日本の死刑の特徴は「密行主義」なのである。

 執行する時期が決められるプロセスや、どのような経緯で死刑の執行が決められ、どのような理由でその死刑囚が執行されるに値するとされたのか……これらの理由は明かされる事がない。

 本書でも冒頭で、2018年に行われたオウム真理教幹部ら7名の死刑執行にあたっての記者会見で当時の上川法相が記者らの質問に対し、実に15回も「お答えは差し控える」という言葉を使ったと指摘している。
 近年の与党政治家の、この「お答えは差し控える」は、ほとほとウンザリである。

 「死刑執行を行った理由は何なのか。選定に恣意的な判断はなかったのか。死刑囚は、科された刑に対してどのような考えを抱いているのか。そうした疑念に答える事なく、国家が人の生命を奪う刑罰を維持しようとするのは、かなりの無理があると言わざるを得ない」――とは、本書の著者の指摘である。

 法務省は死刑制度を維持する理由に「国民の支持」を挙げているが、このように死刑に関わる情報をほとんど公開しない「密行主義」に徹していながら「国民の支持を得ている」と考えるやり口に行政の卑劣さがうかがえる。

 例えば、先進国の民主主義国家としては極めて珍しい、未だ死刑制度を存置しているアメリカでは、収監されている死刑囚の情報は州のホームページを見れば分かるし、囚人と初対面のジャーナリストでも面会しての取材は許可されている。

 だが、日本では死刑が確定した確定死刑囚については、面会や手紙のやり取りなどの相手については厳しく制限されていて、初対面の人間などは、死刑囚との面会は通常、許可されないのである。
 日本の死刑囚は、行政によって厳しく外部との連絡を制限されているのである。

 アメリカでは死刑執行に対してジャーナリストの立ち合い等も認められているそうだが、日本では行政の関係者以外の立ち合いは基本的に認められておらず、死刑執行が適切に行われていたかどうかを外部の者が検証する手段はない。

 刑が実行される際に立ち合いを許されている者は、死刑囚の様子は拘置所の幹部や刑務官ら行政関係者に限られており、教誨を行う僧侶も刑場の「前室」と呼ばれる場所にしか立ち入る事はできない。

 アメリカでは現在、徐々に死刑を廃止する州が増えているそうなのだが、その理由の一つは死刑執行の様々な情報に国民が自由にアクセスする事ができ、それが適切だったのかどうか、死刑囚はどのような人物で、どのような経緯で逮捕に至り、どのような罪状で死刑判決を受け、どのような主張をしているのか等の情報を公式サイトで見て、それが適切な処刑であったのか市民が検証する材料が提供されているからでもある。
 だから、アメリカでは例え薬物注射による死刑が行われた場合でもそれが人道的だったのか否か、という議論が巻き起こるのである。

 トランプ政権は連邦政府として2003年以来となる死刑執行を再開しこの年だけで10人の刑を執行したというが、これが米国内外から大きな批判を起こす原因となったと言われている。
 何故かと言えば、トランプは犯罪に厳しい姿勢を示す事で「次期大統領選に向けて保守層にアピールする狙いがあったとみられているが、駆け込み的な執行は議論を呼んだこうしたトランプ氏の「政治的」な死刑執行で、死刑に対して懐疑的な世論が増えたとの見方もある」という。
 この男は、本当に見下げた人間である。

 また、米国では死刑になる人物に有色人種が多い事や、それら有色人種が白人に対して害を加えた場合に死刑になるケースが多いという人種差別的な偏りからも、死刑に対する批判的な意見はあるのである。

 こういった事情が、現在米国で死刑が廃止される州が多くなっている原因になっているようである。

 つまり、米国は死刑に関わるあらゆる情報をオープンにしているからこそ、国民からの「死刑は存置か廃止か?」またはそもそもの刑罰の在り方についての有効な議論が行えるのである。

 日本のように「プライバシー」の理由から、死刑に関わるあらゆる情報を非公開にしてしまっていては、そのような議論ができるはずもない。
 議論が成立する前提となるだけの知識が、行政から与えられていないのだから、当然だ。
 情報がないからこそ、「遺族感情を考えれば死刑にすべきだ」的な「感情論」のような、全く根拠も理屈も通っていない議論にもならない議論しか起こらないのである。

 死刑制度について賛成か反対かという議論をするのならば、まず前提として日本の「死刑」の実態について正確な情報を持たなければ議論など成立しないのだ。

 だからこそ本書の様に、様々な死刑制度に関わる関係者らの取材や情報収集によって得られたデータを、行政に代わって提供してくれているという事が、今の日本の現状では、どれほどありがたい事なのか。

 繰り返すが、批判するにしても賛同するにしても、まずは「知る事」――これなくして議論は成立しないのである。


◆◆◆

 という事で本書を読んで特に興味深いと感じた指摘と、それに対するぼくの感想を以下、いくつかつらつらと書き連ねておこうと思う。


◆「絞首刑」は日本国憲法が禁止している「残虐な刑罰」ではないのか?◆

 日本の死刑制度で採用しているのは「絞首刑」なのだが、この死刑執行方法の形式は1873年、明治憲法制定前の「太政官布告第65号」が根拠となっており、現状の刑法11条「死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する」という法令上の根拠もこの布告にあり、約150年程も変わっていないのである。

 この執行方法については憲法で禁じられた「残虐な刑罰」にあたるのではないかという訴訟が行われている。

 そのたびに裁判所は「人道上、残虐であるという理由は認められない」としてきた。

 しかし、その「残虐でない」とする根拠は1928年ウイーン大学のシュワルツアッヘル博士が執筆した論文なのである。
 なんと、100年近く前に書かれた論文を未だに「根拠」として、絞首刑を継続させているのだ。

 2011年には大阪地裁で、この絞首刑の違憲性についての審理があり、弁護側はオーストリアの法医学者ヴァルテル・ラブル博士と元最高検検事の土本武司・筑波大名誉教授の2名によって絞首刑の残虐性が解説させられた。

 現在ではもう、絞首刑の残虐性は様々な形で示されているのである。

 例えば、人形を使った日本の絞首刑の再現実験では、首にかかる衝撃によって人形の首は切断されてしまった。

 ラブル博士は「ロープの長さや体重などの要素で、身体が傷つく可能性がある」と指摘する。絞首刑はアナログすぎて、不確定な要素が多すぎるのである。だから、何が起こるかわからない。

 法医学者の古畑種基教授の鑑定結果でも絞首刑では「首が切断されたり、長時間苦しみながら死亡したりすることも考えられる」と指摘している。

 元最高検検事の土本武司氏も、自ら立ち会った死刑執行の様子を振り返り「あれを見てむごたらしいと思わない人間は、正常な感覚ではない」と証言している。

 これらの証言に対して大阪地裁の出した答えはほとんど不可解とも思えるものであった。

「絞首刑が死刑の執行方法の中で最善のものと言えるかは議論のあるところだが、死刑に処されるものは、それに値する罪を犯した者で、執行に伴う多少の精神的・肉体的苦痛は当然甘受すべきである」

 この発言は半ば絞首刑の「残虐性」を肯定してしまっていて驚く。

 そして次に判決文は「確かに絞首刑には前近代的なところがあり、死亡するまでに予測不可能な点があるが、だからといって残虐な刑罰に当たるとはいえず、憲法に違反しない」と「真反対」な結論に至るのである。

 全く理屈を通さず前例を踏襲してしまった。

 この大阪地裁の判決に、後藤貞人弁護士は「残虐性を認めている。絞首刑で、人は速やかには死なないというのを、首がちぎれる可能性があるというところを認めたわけです。誰も反論する人はいなかったんですから」と不満を漏らしたという。

 ――以上、見てきたように絞首刑は憲法上も明確に「違憲」である。
 よって、死刑制度はまず執行方法からして問題があるものだと考えるべきだ。

 薬物注射など、絞首刑よりも苦痛を伴わない死刑執行方法も存在するにもかかわらず「残虐な絞首刑」にこだわる理由とは何なのだろうか?この「こだわり」に、何かしら法務省や政権の「意図」があるとは思えないだろうか?


◆「加害者の人権は守って、遺族の人権は無視していいのか」という論調について◆

 「加害者の人権を守るために死刑は廃止すべきだ」の論調に対して、「加害者の人権を守るために、遺族の人権は無視してもいいのか」「被害者の人権はどうなるんだ」という反論があるが、これは単純に「詭弁」である。

 何故なら「(死刑という形で)復讐をする権利」などという"人権"は存在しなからである。

 「遺族の感情を鑑みて」加害者を死刑にするという論調は、「遺族の復讐感情」を「肯定」しているのである。
 無論、復讐は現状、日本のどの法律でも肯定していない。 その証拠に「復讐」を目的にした殺人・暴力も日本では「犯罪」となる。

 要は「被害者の人権はどうなるんだ」という意見は、その「人権」の認識が間違っているのである。

 神奈川県人権啓発活動ネットワーク協議会によれば「人権」とは『「すべての人々が生命と自由を確保し、それぞれの幸福を追求する権利」あるいは「人間が人間らしく生きる権利で、生まれながらに持っている権利」』――と定義している。(引用元:https://www.moj.go.jp/jinkennet/kanagawa/kanagawa_nandesuka.html

 この定義から考えてみても「死刑」を肯定する理屈に「人権」は関係がないと分かる。残虐な方法で死刑にされる事こそが「人権」意識に反する。

 参考までに以下、作家・映画監督・森達也氏のコラムからも引用しよう。

 殺した人と殺された人。確かに言葉や概念として対ではある。でも人権について考えたとき、この二つは決して対立するものではない。どちらかを上げたらどちらかが下がるというものでもない。どちらかを優先したらどちらかが軽視されるというものでもない。シーソーとは違う。世界は白と黒ではできていない。もっと複雑だ。
(引用元・ヒューライツ大阪:https://www.hurights.or.jp/archives/newsletter/section4/2018/03/post-201804.html

 つまり「加害者の人権が守られると、遺族の人権が侵害された事になる」という事にはならない。この両者は「シーソーとは違う」のだから。

 「加害者の人権を守り、遺族の人権も守る」というほうがよっぽど「人権」に配慮している考え方だ。

 ゆえに「加害者の人権を守るために、遺族の人権は無視してもいいのか」「被害者の人権はどうなるんだ」などというデタラメな論調で、遺族の復讐感情をあおるのはやめるべきである。


◆「遺族感情を考慮すれば被告を死刑にするのはやむを得ない」論について◆

 死刑を肯定する意見について「遺族感情を考慮すれば、被告を死刑にするのはやむを得ないだろう」という声も聴くのだが、被害者遺族の全てが死刑を望む訳ではないという事も指摘しておきたい。

 実際、娘を暴行で殺された遺族が、加害者の死刑囚の減刑の嘆願書を法務省に提出したという事例も本書で紹介されている。

 本書で紹介されているこのケースでは、遺族の減刑の嘆願書の提出されても、加害者の減刑はかなわず、けっきょく死刑は執行されてしまった。

 ――つまりここで重要なのは、法務省はなにも「遺族感情を考慮して」死刑を行っている訳ではないという事である。
 遺族の感情とは無関係に、行政は死刑を執行しているのである。

 「遺族感情」というものは、人によっても事件の性格によっても全くまちまちで「遺族感情」の事を無関係な人間が云々できるものではないのである。

 事件直後は誰でも、被害者遺族の気は立っていて「死刑を強く望みます」と訴える人間も多いが、いつまで経っても死刑に執着しているわけではない。

 逆に、死刑に関わる重罪裁判というのは結審するのに何年も何十年もかかるケースもあり、そのあいだ遺族は何度も事件の事を蒸し返されなければならない。

 そして、死刑が確定した後でも、死刑囚の刑の執行が即座に行われるわけではない。その間に遺族と加害者との交流の内に両者が和解するというケースもある。

 「遺族感情」というのは、それだけ複雑なものなのである。
 そういったものを根拠に「死刑」を肯定するという論調は端的に「雑」な理屈でしかない。


◆「国民の8割が死刑制度を支持している」についての疑義◆

 法務省は死刑制度を維持する理由に「国民の支持」を挙げているが、現在「死刑を容認する国民は8割超」と言われている。

 この根拠となるアンケートについてだが、例によって「選択肢」に問題があった。

 自民党政府は1956年~2009年にかけて9回にわたって死刑制度に関する世論調査を実施しているという。

(1994~2009年の4回のアンケート)死刑の廃止は賛成か反対かという質問に「1)どんな場合でも死刑は廃止すべきである、2)場合によっては死刑もやむを得ない、3)わからない・一概に言えない」という選択肢が設定されていたという。

 この調査結果で「2」の回答が85.6%にのぼっているのである。

 しかし、これは本書の著者も指摘しているが、何故このアンケートではシンプルに「賛成」「反対」という選択肢にせず「どんな場合でも」や「場合によっては」などという言葉を加えているのか?

 こういう表現によって回答者の答えに偏りが出るのではないかというのは当然出てくる疑問ではないだろうか。

 事実、1956年~1989年までの5回のアンケートでは選択肢は「1)賛成、2)反対、3)わからない」というシンプルな表現になっている。

 わざわざ「どんな場合でも」や「場合によっては」といった、片方の意見を強調するような表現を加えるというのは、何らかの意図があるものと疑われても仕方ないのではなかろうか。

 つまり、こういった偏った選択肢によったアンケート結果をもってして政府は「国民の8割以上が死刑制度を容認している」としているのである。

 なお、2015年に行われたアンケートでは「死刑は廃止すべきである/死刑もやむを得ない/わからない・一概に言えない」に選択肢は単純化されたのだそうである。

 また、このアンケートでは追加質問が加わった。「将来も死刑を廃止しないほうが良いと思いますが、それとも、状況が変われば、将来的には死刑を廃止してもよいと思いますか」である。

 この質問で「将来も死刑を廃止しない」という強硬な意見は57.5%で、「将来的には、状況が変われば死刑を廃止してもよい」という選択肢を選んだのは40.5%にのぼったという。

 つまり、死刑廃止について柔軟な考え方を示す人が4割近くもいたという事なのだ。

 こういったデータを見ても、「日本国民は皆、死刑制度に賛成している」とは、一概には言えないのである。


◆公正性に欠ける信頼できない組織が「死刑」という手段を握っている危険性◆

 ぼくが何よりも不快に思っているのは、日本の警察組織や現政権与党といった、全く「公正性に欠ける信頼できない組織」が「死刑」という手段を握っているという事実だ。

 ぼくは、ファシスト傾向にある政権が「死刑」という手駒を持っているのは、将来的に「為政者による粛清」を可能にする萌芽になると真剣に憂慮している。

 まず何より、警察組織というのは過去、幾度となく「証拠の捏造」を行っているという点である。

 近年のもので検索してもゴロゴロ出てくる。

 2021年8月、名古屋地裁での覚醒剤取締法違反事件の判決では「警察官による何らかの作為が介在した疑いが払拭できない」と警察官による証拠捏造の可能性が指摘された。

 2020年には、北海道警の交通機動隊員による速度違反取り締まりの証拠偽造事件で元警部補が有罪判決を受けている。

 2013年には 大阪弁護士会が「近時、大阪府警をはじめとし、兵庫県警や鹿児島県警などで、警察官による、「調書改ざん」その他の証拠の改竄・捏造行為が次々と発覚したとの報道があいついでいる」として「頻発する警察による証拠の改竄・捏造行為に対し、これを防止するために取調べの可視化の実現を求める会長声明」を出しているほどである(2013年7月1日)。

 無論、死刑に関わる重大事件についても「証拠捏造」は起こっているという事も容易に想像がつくだろう。これが冒頭に書いたように「日本の警察組織が公正性にかける/信頼できない組織だ」と言う根拠である。

 警察が証拠の捏造が出来るのであれば、例えば為政者の指示による意図的な刑事事件のでっち上げも不可能ではない。

 事実、自民党は今年(※2021年)9月14日に、安倍・菅政権で「官邸の忠犬」「政権の爪牙」と呼ばれ、山口敬之の逮捕を揉み消した官邸子飼いの人物である中村格氏を警察庁長官に昇格させる人事を閣議で了承した。

 ……と、こんな人事を行っているのである。

 為政者の言いなりになる人物が警察庁のトップにおり、更に現場の警察官は証拠の捏造・改竄を幾度も行っている「前科」がある。
 ……多少の想像力を働かせれば、この危険性が分かるだろう。

 こういう公正性に欠ける警察や政治に「死刑」の権力を持たせる事の意味を、良く考えてほしい。


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