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◆読書日記.《大島一洋『芸術とスキャンダル 戦後美術事件史』》

※本稿は某SNSに2021年5月30日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 大島一洋『芸術とスキャンダル 戦後美術事件史』読了。

大島一洋『芸術とスキャンダル 戦後美術事件史』

 フリーライターの著者が1947年~2006年までに日本の美術界を騒がせた様々な事件を紹介する一冊。

 9つの贋作事件、2つの盗難事件、そして美術関連で起こった3つの裁判、そして13のコラムによって日本の戦後美術事件史をざっと概観しようという内容。

 以前から美術関連の事件というものには興味を持っていて、この手の書籍や雑誌、ムック等はしばしば書店で見つけては購入していた。

 その中でも本書は国内の主だった事件内容を割合簡単にまとめていて読み易く、入り口としては適度な分量だと思った。
 著者も専門家ではなく元々は編集者出身のライターである。

 という事で本書の内容は本格的な学術的なものではなく、著者が図書館通いをして雑誌や週刊誌、書籍等の内容をまとめた「安楽椅子探偵」的な一冊となっている。

 本書は情報をまとめるほうに力を入れているようで、イマイチ物足りないのは作者なりの「考察」も「分析」も「主張」もないという所だろう。

 本書はそういった作者の個性を排した「教科書的」な内容であった。

 だが、だからこそ戦後の美術事件史を知るうえでは、良いきっかけとなる入門書として、なかなかの良書なのではないかとも思うのだ。

◆◆◆

 ぼくもそれほど詳しい訳ではないが、本書では滝川太郎事件からルグロ事件、佐野乾山、偽魯山人、偽棟方志功など、一般の人でも知っている有名な事件がちゃんと抑えているのが良い。

 本書の末尾に記載されている戦後美術事件史年表を見てみると、贋作などは60年代と80年代に有名な事件が起こって騒がれているようだというのが分かる。

 これは恐らく景気が上向きになっている頃で、富裕層や国が文化的なものに資金を投入する余裕の出てきた頃に頻発しているのではないかとも思える。

 60年代は戦後復興からの苦しい時期を抜け出して高度経済成長の最盛期だったし、80年代の特に後半は空前のバブル景気で日本人がジャパンマネーの力で海外の美術を次々に買いあさっていた時期でもあった。

 安田火災がゴッホの『ひまわり』を53億円という超高額で落札してトップニュースになったのは1987年の事だった。
 だが、この『ひまわり』は後年、幾度も贋作疑惑が持ち上がった事でも有名となった。

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 80年代は「美術品の価値は下がりにくいので投資や税金対策に最適だ」という信仰が流行った時期でもあり、富裕層だけではなく、大企業の美術部などもこぞって海外から美術品を買いまくっていた。

 「買いまくっていた」と言っても大した美術鑑定眼も持たない人物が買い付けを行ったり、事前調査が不十分なまま美術商の言いなりで美術品を購入していたり、という杜撰なやり方が多かったと言われていて、「日本人は「ゴッホ」や「ピカソ」と名の付くものであればどんな二級品のピカソでも三級品のピカソでも買ってくれる」等と、海外の美術商のカモになっていたとも言われている。

 あげく、購入した美術品が値下がりして売り払う事も出来ず、企業の金庫に塩漬けにされている美術品も多いという話もよく耳にする。

 現在のように長期不況に誰もかれもが喘いでいる時代では、さすがに企業もサイフの紐が硬くなってしまったし、60年代よりも真贋判定の知識は広まっているので、美術系の詐欺師からしてみれば簡単に引っかかってくれるようなカモを見つけるのは難しい時代なのかもしれない。

 昔は公立の美術館でもリヒテンシュタインの「ヘアリボンの少女」を6億円という巨額でポンと買ってくれたりもしたが、昨今では、だいたいのミュージアムは貧弱な予算で貧弱な計画をたてなければならなかったりする状態だ。

 こういう時代では昔のように世間が騒然とするような贋作事件は起こらないのかもしれない。

◆◆◆

 ただし、近年の美術業界関連で取り上げねばならない問題は、もっと別な所にある。

 特に国内で問題になっているのは「表現規制」だと言わなければなるまい。
 美術の表現規制問題というのは、国内でも昔からしばしば発生した問題である。

 本書でも取り上げられているのは、1965年に起きた非常に有名な赤瀬川原平の「模型千円札事件」である。

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 前衛芸術家であった赤瀬川原平は、現代の「コピーとオリジナル問題」を考える作品として千円札の「模型」を作ったのである。

 紙幣というものは不思議なもので、大量印刷された「コピー」こそが「本物」であり、そのオリジナルたる原版は流通する事のできない「偽物」だ、という風な事を考えたというのだ。
 コピーが本物で、オリジナルが偽物。その紙幣の更なる「模造品」を作成した……といったコンセプトがこの「模型千円札」にはあった。

 勿論、偽紙幣として流通させようという訳ではないし、第一これは裏面が白紙なのですぐ偽物と分かるように作られている。あくまで「芸術品」として作られた「模型千円札」なのである。

 昭和四十年、赤瀬川原平はこの件で突如起訴される事となる。

 しかし、これは「通貨偽造罪」ではなく「通貨及証券模造取締法」違反という内容であった。
 この罪は「通貨に紛らわしき外観を有するものを罰する」というものだった。
 犯罪目的ではない意図で作られ、誰一人被害者はいないのに、犯罪者として罰されるのである。

 これによって赤瀬川原平は最終的に有罪判決を受ける事となった。

 この手の「芸術作品の内容に問題があるのではないか?」といったトラブルは国内でしばしば発生しているのだが、芸術家側の主張が受け入れられた件というものは、ぼくの知っている限りではほとんど見た事がない。

 美術裁判では芸術家は大抵敗訴する。

 つまり、それほど日本では「芸術」に対する理解が低いのである。

 最近では「あいちトリエンナーレ」が右翼を巻き込んだために大騒動に発展した事が記憶に新しいが、そんなのは問題の一端に過ぎない。

 2010年代にもろくでなし子の逮捕、鷹野隆大の作品の展示変更などの「表現規制」関連のトラブルが発生して有名になった。

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 本書では、1982年、船越保武の最高傑作であるブロンズ像「病醜のダミアン(救ライの使徒)」を展示していた埼玉県立近代美術館に対して、市民団体から「ダミアン像はハンセン病を誇張して、見る人の恐怖心を煽り、この病に対する偏見を助長する」という抗議を受けて撤去された事件が紹介されている。

病醜のダミアン

 ダミアン神父は19世紀、ハワイ諸島の中でもハンセン病患者を隔離した島に赴任して患者の生活向上に努め、最終的には自らもハンセン病にかかって亡くなった人物であった。そういったモデルとなった人物の事を考えても、著者の意図は「見る人の恐怖心を煽り、この病に対する偏見を助長する」という批判とは、真逆の所にある。
 つまりこのブロンズ像は「作品の思想的背景」については無視され「見た目の美醜」によって、抗議を受け、撤去まで至った芸術作品なのである。

「内容を理解して、それについての是非を議論する」という感覚が、どうも日本人には抜け落ちているのではないか? 一般のアート・リテラシーが、絶望的に低いのである。

 一般的な日本人の「文化理解」などというものは、所詮この程度のものなのである。

 毒舌家で有名な作家の佐藤亜紀はTwitter上で次のような事を言っている。

「大多数の支持は絶対に得られない表現というものはある。先鋭な表現は理解するのに蓄積が必要で、大多数にはその蓄積がない。ただしこの国では、大多数の支持を得ることと表現の価値をイコールで結ぶような言説が流布し過ぎた。結果がこれだ。」 ――佐藤亜紀(Twitterの発言より)
「大多数の支持を目的にしたら綺麗きれいな花鳥風月や美人画しかやれないよ。大多数というのはそういうもの。そして大多数の支持が得られるものにわざわざ財政援助をする必要はない。十分稼げるから。」 ――佐藤亜紀(Twitterの発言より)

 佐藤亜紀の意見はしばしば辛辣ではあるが、ぼくはこの意見には概ね同感である。
 特に「大多数の支持を得ることと表現の価値をイコールで結ぶような言説が流布し過ぎた」という意見は、意外と日本の芸術界やエンタテインメント界を蝕んでいる根深い病理なのではないかとさえ思うのである。

「大多数の支持を目的」にした芸術というのは、果たしてエンタテイメント作品と何ほどの違いがあるのだろうか? 日本の文化水準をある程度以上に維持しようと思うならば、「綺麗きれいな花鳥風月や美人画」のような分かりやすいアートではなく、「先鋭な表現」である「模造千円札」や「ダミアン像」や「表現の不自由展」といった作品にこそ「財政援助」をするべきではないのか。
 佐藤亜紀が「結果がこれだ」と批判しているのは「表現の不自由展」の事だった……と言えば、近年日本のアート業界の問題の深刻さが少しは理解してもらえるだろうか。

 本書は非常に教科書的に簡潔にまとまった良い資料だ。それについて何を思うかは人それぞれだろう。
 ぼくがこの国内アート事件史を概観して痛感したのは、以上のように日本人のアート・リテラシーの低さであった。
 一般だけでない。政治家や官憲も含め、このレベルでは今後も国内の芸術家の表現は規制を免れないだろう。


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