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◆読書日記.《内田樹『街場のマンガ論』》

※本稿は某SNSに2021年3月15日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 内田樹『街場のマンガ論』読了。

内田樹『街場のマンガ論』

 仏文学者にして思想家、武道家でもある内田先生によるマンガにかかわる気楽なエッセイ集。日本のマンガ文化に対する熱いファン・レター集。

 ……という事でこれを「論」扱いの商品として売り出すのはちょっと感心しない。こういう編集者のやり口というのは職業倫理的にどうなのか。

 内田先生の『街場』シリーズは通常、大学の講義の内容の書き起こしという体裁でやっているが、本書は基本的には内田先生のブログに発表された文章がメインで、それとその他様々な媒体で発表したマンガ関連の文章を一冊にまとめたもの。と言う事で本書は『街場』シリーズとしてもその体裁は特殊だ。

 内田先生ご自身も「別に本格的マンガ論を書こうと思って出した本ではなくて、ブログにぱらぱらと書いたマンガについての言及を集めたら一冊になっちゃいましたという「瓢箪から駒」的出自の本ですので~」と書いている。
 そういう内容ならそういう内容と分かるように、ちゃんと本の体裁を整えてほしいものである。

 と言う事で、本書は「雑食系マンガリーダー」という内田先生なりのマンガの見方をつらつらと気軽に書き連ねた文章を一冊にまとめたものである。

 つまり、本書は体系的に書かれたものでも学術的に書かれたものでもない。内容は雑多で、浅く、あまり一貫性はない。

 しかも、モノによっては単なる「日記」的な文章でしかないものまで散見できる「お気楽マンガ語り」である。

「井上雅彦論」は若干浅く、「マンガと日本語」は今となっては少々手垢にまみれた話題であり、「オタク論・ボーイズラブ論」は、アイデアは面白いものの、ぼく的には少々説得力に欠けると思われた。
「宮崎駿論」はもはやマンガでなくアニメだが、これも浅い。
「マンガ断想」に至っては、著作権関連の話や書店の話など、もはやマンガと関係のない文章まで入ってきている。

 ぼく的に初耳の話で面白かったのは「少女マンガ論」くらいなもので、これもどちらかというと内田先生の話のほうではなく、大塚英志が「紡木たくの『ホットロード』を解析して、そこに複数の発話水準があることを証明してみせた」というくだりであった。
 これには若干興味を惹かれたが、残念ながらそれが大塚のどの著作を引用しているのかというのは書いていない(!)という感じからも、本書の「肩の抜け方」がお分かりになろう。

 という事で、ぼくも内田先生にならって本レビューはつらつらと気楽に肩の力を抜いて書く事としよう。

◆◆◆

 内田先生も言っているが「少女マンガを読むにはリテラシーが必要になる」というのは、けっこう昔から言われてきた事なのだが、ぼくはあまり「何が書いてあるのだろう?」くらいの難読少女マンガには会っていない。

 それがたまたまなのかどうなのかは分からない。

 ぼくが本格的に少女マンガを読むようになったのは大学に入ってからだったように記憶している。

 当時の同級生の間では「本当に感性が鋭い奴は少年マンガではなく、少女マンガを読んでいる説」というのが流行った事があったのである。

 それは、「動き」の表現については少年マンガのほうが技術が上だが、人間関係の微妙な機微であったり深い心理洞察であったりだとかという「内面」を深く掘り下げる事に関しては少女マンガに一日の長がある……といった説で、「少女マンガにハマったら、少年マンガなんてガキくさくて読めなくなるよ」というのである。

 今から考えると何とも根拠薄弱な理屈ではあるが、そう主張する友人らに影響されて「うし、じゃあその少女マンガってやつを本格的に読んでやろうじゃないの」と思ったわけである。

 当時、実家近くにあった地元の図書館には雑誌コーナーに白泉社の少女マンガ雑誌『花とゆめ』のバックナンバーが常時十冊くらい置いてあったので、それらを片っ端から読んでいったのだ。

 その当時のぼくの中での少女マンガのイメージと言えば『キャンディキャンディ』や『パタリロ!』くらいの時期で止まっていたので(いや、中学生時代には『きんぎょ注意報』とか『ふしぎ遊戯』なんかも読んでたかな?)、少女マンガ特有のアクのある絵柄に若干の抵抗感はあった。
 子供の頃に見たそういったいがらしゆみこや萩尾望都の絵柄というのは子供心に「装飾過多」というイメージがあって苦手意識があったのかもしれない。

 しかし、ぼくがそうやって少女マンガを読み始めた頃の絵柄というのは、ぼくが子供の頃の少女マンガの絵柄特有のアクのようなものがかなり抜けている事に気付いたのである。

 その頃の『花とゆめ』の掲載作と言えば『フルーツバスケット』や『紅茶王子』、『Wジュリエット』『花ざかりの君たちへ』『しゃにむにGO』等々だが、ぼくはこれらの絵柄に子供の頃に感じた「アク」のようなものは全く感じる事はなかった。ぼくの目が肥えたわけではない。と少なくとも当時は感じた。

 これはおそらく、少女マンガの絵柄の変質が関係しているのだろうと思ったのである。

 これは当時の少年マンガの絵柄にも感じていた事で、90年代のジャンプ漫画は80年代のそれと明らかに絵柄が変化してきていると感じていたのである。

 80年代と言えば『北斗の拳』や『魁!!男塾』『シティーハンター』『ブラックエンジェルズ』『銀牙 -流れ星 銀-』『ジョジョの奇妙な冒険(第一部)』『赤龍王』等々……「男臭い」タイプの劇画調のハイティーン~青年の男性主人公が今よりも多数を占めていたが、90年代にはそれが清潔感のある中性的な「オトコノコ」に代わって色調も明るくなっていった、という感覚があった。

80年代週刊少年ジャンプ

90年代週刊少年ジャンプ

 例えば、『幽遊白書』『遊戯王』『るろうに剣心』『すごいよ!!マサルさん』『ダイの大冒険』『地獄先生ぬーべー』『封神演義』等々である。

 少年マンガも、昔の絵柄からどこか「男臭さ的なアク」が抜けていったように思われた。
 ドロ臭さが抜け、劇画タッチの「現実的な肉体の肌触り」というものが抜け、絵柄が徐々に抽象化されつつあった、とも言えるだろう。

 つまり、ぼくとしては90年代に入ってから少年マンガも少女マンガも、どちらの「理想とする男性像」というものが「中性化」「抽象化」してきている、と言う風に感じたのである。

『ジョジョの奇妙な冒険』の1部の絵柄と、最近の『ジョジョリオン』の絵柄と比べてみても、その傾向が分かるだろう。

 ぼくは80年代少年週刊ジャンプにジョジョ1部の連載が始まった時、その絵柄の傾向を「北斗の拳の分派」だと思ったものである。そのジョジョの劇画調の絵柄も、最近ではかなりの抽象化が進んだ。

 ぼくの肌感覚か言って、90年代からマンガの絵柄は「現実的な肌触りが感じられる劇画調のリアル・タッチ」が消え始め、高度に抽象化が進んでいったと思うのである。男性らしさを感じさせる生々しい肉体感もなければ、匂いも汚れも感じさせない抽象化された絵柄。

 少女マンガは男の子でも読めるようになっていったし、少年マンガも女の子の熱心な読者が随分と増えたように思われる。

 事実、アニメ化されたマンガ作品については、原作が少年マンガなのか少女マンガなのかというのは、80年代の頃に比べてあまり気にされなくなっていった。
 80年代以前のアニメだったら、少女マンガ原作のアニメ化は絵柄を見ただけでそれと分かったものである。

「表現」についてはまだ少年少女の棲み分けはあるかもしれないが、こと「絵柄」については、もうあまり少年少女の棲み分けはさほどないのではないかと思ったのである。

……このようにマンガの絵柄の「中性化」というのは、ぼくは少女マンガを読み始めた大学時代に初めて気が付いたものだった。そして、おそらくこの傾向は今後どんどんと進んでいくだろうとも予測していた。
(出典が正確に思いだせないのだが、タレントの山田五郎さんが以前インタビューか何かで、好景気の時にはいかにも「男らしい」感じの男子がモテる傾向があり、不景気になると中性的な男子がモテるようになるといったような発言をしていて、「そういう関係があるのかな?」とも思ったものである)

 それでは絵柄の「抽象化」の傾向については、現在のマンガやアニメの絵柄的文脈にあるのは何なのだろうか?

 それは「非現実化」「非肉体化」の傾向ではなかろうか、と思うのである。

 マンガやアニメの絵柄や表現から、どんどんと肉体感覚的なもの、現実感覚的なもの、というのが抜けていっているのではないか。

「非肉体化」という事については、アニメ監督の富野由悠季監督が指摘していた事でもあったのではないかと思う(「身体性の喪失」だったかな?)。肉体感覚を失ってはいけない、といった事であった。
 戦争やバトルシーンで、人が斬られたり撃たれたりしても、視聴者が被害者の「痛さ」を感じ取れない、兵士(モブ)が大量に死んでいるシーンを見ても「痛ましさ」を感じとる事がない。
 つまり、そういったシーンにかかわる「肉体的生々しさ」であったり、「身体感覚」といったようなものを、現代マンガや現代アニメはどんどん喪失していっているのではないかと思うのである。

 先日、ぼくが「ライトノベルの「軽さ」というものは「現実世界の重苦しい問題」から逃れる軽さではないか」と発言したのも、これと同様の問題だ。

 つまり、最近のマンガ・アニメ・ラノベ系オタク・カルチャーというものの傾向の共通点がここにあるのではないかと思うのである。

 ちかごろはこの手のフィクションから注意深く「現実を連想させる生々しい表現」が取り除かれていっているのではないか、というのがぼくの感覚である。

 で、これだけの内容の事を学術的に記述しようと思えばしかるべき資料(80~90年代連載の代表的な少年マンガと少女マンガ)を大量に比較検討して証拠づける必要があるので、これは無料のお仕事としてやるには少々しんどい作業だ。
 という事で、今回は内田先生の本の内容にもじって気軽に腹中にあったアイデアのみを提示させてもらったわけである。




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