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◆読書日記.《中田春彌『Levius-レビウス-』上下巻》

※本稿は某SNSに2021年7月16日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 先日買ってきた中田春彌のスチームパンク・バトル漫画『Levius-レビウス-新装版』の上下巻、読みましたよ~♪

『Levius-レビウス-新装版』


《あらすじ》

 舞台は蒸気機関が主流となっているスチームパンク世界。

 人々の暮らしぶりや生活レベルはおおよそわれわれの世界の19世紀ヨーロッパと似たような環境にある"新生歴"19世紀。――この世界では、人間の機能の一部を機械に代用させる、あるいは機械化する事によって人間以上の機能を持たせる事ができるトランスヒューマニズムの技術が非常に発展していた。

 戦後の帝都では、人体の各部を機械に置き換えた選手同士が戦う「機関拳闘」という格闘技が行われていた。

 主人公のレビウスは戦争で父を亡くし、母は植物状態で入院中のため、伯父のザックの元に身を置いていた。

 彼は機関拳闘GⅡリーグの若き闘士として連戦連勝の活躍をしていた。……というお話。


《感想》

 ぼくとしては本作は、アニメ版『レビウス』の出来が非常に良かったので「アニメ版の原作」として読んだ。

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 大まかなストーリーはアニメ版も原作版も同じだが、アニメ版は『あしたのジョー』的な「スポーツが人を成長させる」といった正統派スポーツ・アニメといった感じだったが、原作版はもっとダークな「ギリギリの殺し合いの中で何かを探る若者」を描いたSF色の強いバトル漫画といった感じであった。

 アニメ版の機関拳闘はほぼボクシングに準じたルールであったが、原作版はK-1的な打撃中心の総合格闘で、ルールも「選手のギブアップかセコンドのタオル、もしくは選手の死――この3種のみで決着がつけられる」という過酷なもの。
 選手がいくら怪我をしてもこの3種の方法以外では試合は止められる事はない。

 原作版ではトランスヒューマニズムの技術は現代よりも格段に上なようで、機関拳闘ではしばしば選手の身体に穴が開いたり腕がもげたりするのだが、それでもラウンド間の休憩中に応急処置を施して試合を続行させたりもする。
 だから、機関拳闘士は徐々に身体の機械化が進んでしまうという状態となる。

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 アニメ版では拳闘士の死と言うのは非常に悪い状態に起こるものだが、原作版では選手の試合後の生存率は非常に低く「最後の檻」とまで言われる始末。文字通りおのれの身体と命を懸けた戦いと言う事となる。

 この設定の違いだけで、アニメ版のレビウスと原作版のレビウスの、主人公の性格設定はかなりの差が出てくる。

 アニメ版のレビウスは機関拳闘にある種「スポーツの解放感」的な憧れを抱いていたのであろうと思わせられる描写がなされている。
 だが、原作版のレビウスの場合は違う。金銭欲が強いわけでも好戦的でもない健康な若者が、この死亡率の高い血みどろの世界に自ら身を投げ込もうというのにはまた別の理由があるとしか考えられないのである。

 原作版のレビウスの母親の状態というのは、これもアニメ版とは描写が違っている。

 アニメ版でのレビウスの母は、外見的に異常は見られないが、植物状態で長く意識を取り戻しておらず、さながら「眠れる森の美女」である。

 だが、原作版の彼女は身体の欠損、機械化、多数のチューブに繋がれた"スパゲティ状態"にあったのだ。
 痛々しい傷跡の残る母の体のこの状態は、戦時中レビウスの身をかばって助ける事で、この状態にまで至ってしまったのである。

 レビウスは、母に負い目があるのだ。レビウスは、自分のせいで母を傷つけてしまったと悔やんでいるのである。

 子供時代のレビウスが初めて機械拳闘を見たのは、街中で少女時代の母親の幻を追っていって行きついた先が拳闘場だったからだ。
 ここに、ある種の自罰的な意識が働いたのではなかろうか。

 レビウスが機械化している右腕は拳闘用のものではない(というのが原作版のみの設定となっている)。
 医療用の義手なので、日常生活でも使えるように神経が腕中に張り巡らされているのである。だから、殴るたびに殴られた相手と同じような痛みが走る。

 原作版のレビウスにとっては、拳闘は自罰であって同時に他罰でもある、複雑な感情が隠れているのかもしれない。

 フロイト的に言うならば、ある種のトラウマによって生じたタナトス(破壊欲動)は、自己に向かう方向と他者へ向かう方向の両方の可能性がある。

 レビウスの母を傷つけたのは、何者かが起こした戦争という災厄によってであると同時に、自分の息子をかばった事によるものでもあった。

 レビウスの「罪の意識」によって生じた行き場のない破壊欲動は、他者へ向かう破壊衝動と、殴ると同時に自らの義手を通して伝わってくる激痛という自虐的な枷によって、自罰的なタナトスと他罰的なタナトスの両方を同時に解消させる。
 だからこそ機械拳闘はレビウスにとって「自罰であって同時に他罰でもある」のである。

 アニメ版のレビウスはしばしば「勝ちたい」と言う。だが、原作版のレビウスからは「勝ちたい」という言葉は不思議なほど口にしない。
 それどころか、相手選手を殴り殺した後、悲痛な面持ちで涙を流している場面さえ見せる。

 どう考えても、原作版のレビウスにとって機械拳闘は自らを罰しているとしか思えない。

◆◆◆

 そのレビウスに転機が訪れる。それがA.J.ラングドンというわけである。

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 アメジストによって機械化され、声を潰され、洗脳されて生きる戦闘機械と化したAJ。

 無意味な殺し合いを続ける他者を罰し続け、母を傷つけてしまった自らを罰し続けるレビウスにとって、これは初めて機械拳闘で人を救える稀な機会だった。

 血にまみれた地獄のような戦いの中に自ら身を置いてきたレビウスにとって、戦う事で初めて他人を救う機会を得たのである。

 ネガティブな戦いの中で、初めて人の役に立つ意味を見出したレビウスにとってAJとの闘いは、この贖罪の煉獄である機械拳闘を通して自らを救済する光明でもあったわけだ。

 このように見てきて改めて面白いと思えるのは、アニメ版も原作版も、ストーリーの骨格自体はほぼ同じであるにもかかわらず、世界観の差によって、主人公の内面の葛藤も戦いの動機さえもガラリと変わってしまうという所である。

 この「差」は、非常に面白い。これほど物語というものはアレンジ一つで激変するのかと。

 アニメ版のレビウスは、戦争によって傷つき、伯父のザックと会った時にはただただふさぎ込むだけの子供だった。
 それが、機械拳闘を見る事によって始めて伯父と交流を持ち始める――という事で、アニメ版のレビウスにとって拳闘は失った生きる活力、生きる目的を再度取り戻して再生するためのものだった。
(※ちなみに、戦争によって心にも身体にも傷を負った若者が、戦後の平和になじめずにいたところ、それをある種の「仕事」を通じて再生していく――という、このテーマはほとんど京アニの名作アニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』そのものである)

 それに対して原作版のレビウスは、伯父のザックと会った時はふさぎ込んだ様子もなくザックとちゃんとコミュニケーションを取っていた。
 ただ、そのレビウスはアニメ版よりもどこか刺々しく不愛想で、父に関しても「あんなヤツ死んでよかったんだっ」と発言するほど、そのささくれだった心情を吐露している。

 この描写からもこちらのレビウスにとって機械拳闘は自罰であり他罰でもあるというのが分かる。

 と、このように些細な描写の「差」からも、アニメ版のレビウスはただただ戦争のトラウマを引きずって自閉的になってしまっている少年であり、原作版はおのれの破壊欲動を持て余している少年だという「差」が生まれるのである。

 この微妙な描写の差や設定の差によって大きくレビウスの内面が変わってしまうという、このメディア間の変換のダイナミズムを感じさせてくれた事、それ自体がぼくにとって本作の面白さの一つであったと思う。

◆◆◆

 ただし、これは原作版『レビウス』の単体評価というわけではない。単体作品としての『レビウス』の評価はまた違ってくる。

 ぼくとしては、アニメ版と比べると原作版はやや評価は劣ると思っている。そこら辺についても説明していこう。

 まず黒幕であるDr.クラウンである。原作版のクラウンは、アニメ版に比べるとかなり「わかりやすい悪役」として書かれていて、その辺がこの作品の心理面のドラマを薄っぺらいものにしてしまっていて残念だ。

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 つまり、人間としてこれほど一面的な性格のキャラクターというのは「深み」がないのである。この薄っぺらい人物をあえて「悪の黒幕」という、作品の動機面を牽引するメインキャラクターの性格に設定している点が、作品自体も薄っぺらいものにしてしまう。
 これは明らかに「欠点」だと言って良いだろう。

 原作版は、こういう悪い意味でケレンの勝っている描写がしばしば見られる。

 絵柄が劇画調にリアルであるからこそ、こういう軽薄な描写が目立って悪く感じてしまうのである。

 だから「ドラマ」としては、アニメ版のほうが一貫性もあり、落ち着いた描写力もあって安定していると評価できるだろう。

 原作版は、「漫画」としても色々と問題がある。ただ、その表現は他の作品と比べても明らかに独特なものがある。

 ヨーロッパ漫画を意識しているのか、セリフは横書きでページも右進みになっている。絵柄も、キャラデザインも、ヨーロッパ漫画をかなり意識したデザインになっているのが面白い。
 表現力もずば抜けている。
 本作のこういった「絵」としての完成度は非常に高い。ことヴィジュアル面に関して言えば、アニメ版よりも原作のほうが圧倒的に質も独自性も高い。

 だが、この手の絵が上手い漫画家というのは「漫画」となると動きがぎこちなくなってしまう事がしばしばある。

 本作も、バトル漫画としては一枚絵の迫力は凄いものがあるのだが、その分「流れ」が硬くなってしまっている。

 一枚絵のバトル描写に一コマ一コマ情報量を込めすぎてしまうと、読者の目はその一コマ一コマの情報処理によって、一コマごとに足止めを喰らってしまう。

 だから、絵の上手い漫画家というのは、しばしば動きがぎこちなかったりするのである。

 ちなみにこの漫画家は、非常に絵が上手いし表現力はずば抜けたものを持っているのだが、ネームが長く、1ページに込める情報量が多すぎて、漫画としてはテンポが遅いのである。

 「文学」としてなら、これでいいだろう。
 実際、原作版は日常のドラマを描写している時のほうが面白いとさえ思える。
 しかし、これは「バトル漫画」なのである。

 この点、アニメ版に比べると、漫画版は「迫力」面では拮抗しているものの、テンポと流れの悪さといった面ではかなり劣る部分があるのではないかと思わざるを得ない。
 これが「内面描写を大切にしたドラマ」であったならば、評価は逆転したかもしれない。だが「動き」を表現せざるを得ない「バトル」というモチーフを使っている以上、テンポと流れの悪さというのは減点対象にならざるを得ないのではなかろうか。
 題材にあったドラマになっているか、題材にあった表現になっているのか……という点から考えて、やはり原作版の見劣りは感じざるを得ない。

 だが、ぼくとしては、それもそれで漫画版のこのユニークさは、貴重なものだと思えなくもないのである。

 つまり「作品の完成度」としては、アニメ版に軍配を上げざるを得ないのだが、「ユニークさ」を考えると漫画版のほうは断然アニメ版よりもユニークネスが勝っている。
 むしろ、アニメ版のイメージを期待して原作を読んでしまうと、漫画版のこのユニークさを損なってしまう事さえありうるかもしれない。

 つまり、漫画版『レビウス』は、「バトル・アクション」を期待して読むのではなく、その圧倒的な表現力、繊細な描写力、世界観のユニークネス……そういった部分に注目するのが、この作品の「上手い楽しみ方」ではないかと思うのである。


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