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◆コラム.《ニーチェにおける「アポロン的/ディオニュソス的」とは何か?》

※本稿は某SNSに2021年3月29日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

  ニーチェの処女作にして体系的な芸術論である『悲劇の誕生』の中心概念は「アポロン的」なものと「ディオニュソス的」なもの、という区別である。

 これを理解しなければニーチェの芸術論は理解できない。

 以下、竹田青嗣氏の『ニーチェ入門』記載のアポロン‐ディオニュソスのそれぞれの概念を整理した記述を引用しよう。

〇アポロン的……夢幻、形象化、固体化、秩序化、英知的、理性的、造形芸術(彫刻・絵画・詩)、節度、コスモス

〇ディオニュソス的……陶酔、一体化、狂騒、情動的、感性的、音楽、過剰、カオス

 ――このように何種かの概念を連ねねばならないので単純に一言では表せない考え方と思って頂きたい。

 アポロン神は理知的な予言の神であり、芸術を司っていて情念を芸術という形式に形象化する力を象徴している。
 対してその対立概念としてニーチェが提示したディオニュソス神はバッカスと同一視される酒の神で、祝祭などの狂乱状態や陶酔を象徴している。

 この二者の対立概念の和解にニーチェ芸術論の理想がある。

 ニーチェの示した問題は、現代の状態はアポロン的なものの優勢でもディオニュソス的なものの優勢でもなく、両者が分断された状態にあり、分断されたが故に其々が頽落してしまっているという点にあった。

 ニーチェは古代ギリシアにはその二元性の和解が成り立っていたと考えていたのである。

 だが、それが崩れ始めたのがソクラテスの主知主義あり、芸術は理性と称する"デーモン"によって解体されてしまったという。

 アポロン的なものとディオニュソス的なものを決然と区別する「学問」が人々の生の中に侵入し、それまであったものを解体してしまった。この辺の論調はどこかハイデガー的でもある。

 エウリピデス曰く「ディオニュソスを見捨てたがゆえに、またアポロからも見捨てられたのだ」。この流れからアリストテレスの知の体系化によって、ハイデガー言う所の「終わりの始まり」が訪れる事となった。
 文明が理知の下に発展し、芸術を国民生活と区別する考え方がアポロンもディオニュソスをも両者とも腐敗させた。

 二元論的な考え方は西洋世界の概念に非常に広く分布されている考え方だと思う。
 アポロン‐ディオニュソスもそれで、これは日本で言えばケとハレのサイクルもこの二元論に近いものがある。
 「ケ」も「ハレ」もそれ単独では全く成り立たない、両者の円環運動があってこそ日常のサイクルが安定する。

 ディオニュソスはトリックスター的な性格も孕んでいると思われる。
 秩序化、理性化、形象化のアポロン的なものを壊乱させ、情動的な狂乱の内に固定的なサイクルをリフレッシュさせるディオニュソス的な役割を持つのがトリックスターとは言えまいか。

 アポロン‐ディオニュソスという二元論的考え方というのは、錬金術の思想にも似ているかもしれない。
 二者原理の合一が錬金術の理想であったように、ニーチェも「だが、ついに両者は(略)最後にはディオニュソス的であるとともにアポロ的である芸術作品としてのアッチカ悲劇を生み出すのである(『悲劇の誕生』より)」と両者の合一に理想を置く。
 やはり「西洋的なもの」は様々なジャンルであっても深堀していくとどこかで繋がっていくものだと感じる。

 ニーチェはこのように「アポロン‐ディオニュソス」概念の元である古代ギリシアの芸術観に立ち返る事で逆に伝統的な西洋の芸術観を覆し、更には後年、それを元にあらゆる西洋的常識に疑問符を突き付けるのである。

 後期ハイデガー思想がニーチェについて詳しく論じるわけである。
 これは古代ギリシアのソクラテス以前のソフィストたちの思想まで遡行して分析する事で伝統的西洋思想を転覆させようと考えたハイデガーの思想そのものではないか。


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