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『あらわれた世界』№5

小野さんは単身寮に戻り、適当に洗濯をした服に着替え、台所に置いてあるパンを噛る。深夜になると、近所の古井戸へと静かに原付を走らせ、誰にも気づかれないよう、古井戸から何年かぶりに冥廷へ降りた。冥廷はとっくに崩壊しており、相変わらず、廃墟と化した空間が広がっていた。

小野さんは、誰もいない冥廷をフラフラと歩き回り、閻魔大王が座る席の横によじ登る。席の机から、冥廷が崩壊した後に、小野さんが置いておいた冥界人名録の控えを引っ張り出す。パラパラとめくると、ハタと小野さんの手が止まった。

「…僕は結婚していて、子供がいるのか…?」

小野さんはしばらく呆然とし、慌てて他のページで何かを確かめると、バタンと人名録を閉じ、冥廷を降りて冥府の門まで走り、キョロキョロと何かを探した。すると、かつては白狐が留まっていた場所に、現世で忽然と姿を消した、あの虚ろ舟が残骸のように転がっていた。

「それで君は失った人生を取り戻す為に、また時間旅行に出たのかい?」

翌朝早くに会館へ現れた小野さんに、お偉いさんは、猛烈に嫌がる猫さんの攻撃をもろともせず、長い爪をパチパチと切りながら話を続けた。

「いえ、舟は壊しました。」

「壊した?」

うっかりパチン!と深く切った爪に、猫さんはたまらずお偉いさんを蹴飛ばし、一目散にパントリーへと駆けていった。お偉いさんは、ゆっくりと立ち上がり、パサパサとズボンの爪をほろい、畳に散らばった爪を手でかき集めた。

「元の人生を取り戻す事に意味が無いからです」

小野さんはなんともあっさりと言い放った。爪を集めながらお偉いさんは、少し拍子抜けする。

「それは残念だな。私もその舟に乗ってみたかったんだが…」

小野さんはお偉いさんの言い草に、意外そうな顔をして、今を生きる人間には所詮必要のない乗り物ですよと、苦笑いした。







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