Sleep Walking Orchestra

2023年12月11日(月)に配信されたBUMP OF CHICKENのこの曲Sleep Walking Orchestra。
長いから以下SWOと略します。
ダンジョン飯は触れたことのない漫画だったので、主題歌決定のニュースに触れた際にメンバーが喜びのコメントを出していて、あぁそうなんだ、と思ったことくらいしか覚えていない。
とは言えBUMP好きな身として嬉しくないはずもなく、新曲リリースはいつだ…!!と楽しみに待っていた。
ダンジョン飯のティザー映像にも耐えて耐えて手を伸ばさず、突然の配信決定ニュース。
ほんと突然。
しかも日曜から月曜への日付変更に合わせて配信開始という、それこそ何かを差し出さなければ聴けないタイミングだった。

たまたま幸いなことに月曜が休みだったので、家族の顔色を慎重に見極めながら深夜に長針半周分をSWOに捧げた。
以下に1回目から3回目までの感想を載せる。

スリープ感想
1回目
意志とは無関係に生きてしまう。
理由は自分の内?外?
イントロ長くなりそうかと思いきや。
ダンジョンの階段を松明持って降りていく姿が思い浮かぶ。あと酒場。
2回目
ダンジョン飯は見ていない。
大人になったら余計に絵本が沁みた、という経験の歌版。
かいじゅうたちのいるところを思い出して、いまの職場の立場と相俟ってマックスが被っていた王冠をいつ自分が無くしたのかなどとちょっと感傷に浸ってしまった。
3回目(歌詞を見ながら)
やはりかいじゅうたちのいるところが思い浮かぶ。
スーパーノヴァやバタフライでも歌われた平等でちっぽけだけど大切な命、的な。
日常と解放。

以上。
曲を早くリピートしたいとの思いが強すぎて、感想を吐き出す前にまた聴いてるパターン。

そこから2週間、聴き続けている。
まだまだ全然だけど自分なりの解釈を一度外に出したくなってこうしてnoteを書いている。

SWOは日中と夜中、現実と夢、心と体、自分と世界、それぞれが位置している場所から真っ直ぐ線を引いて、その間のどこかに存在しているであろう自分を形成しているモノを思索して探索して彷徨する唄だ。

自分という存在を見つめ直すという解釈をして昔読んだ小説の以下の台詞を思い出す。

「我々を規定するのは我々の持つ不可能性である」

著者:森見登美彦

タイトルを忘れてしまっているくらいだから、あくまでニュアンスとして。
私は今から宇宙飛行士にはなれないし、オリンピックにも出られない。発明家にも大統領にもなれない。
できないことの積み重ねにより我々は形作られている、という主旨の発言だったと記憶している。

一見後ろ向きな内容に感じられるかもしれないが、私はこの台詞を読み、これは真理だと感じた。
一方SWOは希求し続けることで不可能性に抗い続け、自分の可能性を潰させない。
追い求めるモノにベットする価値があるかどうかの打算もない。
どこに向かっているのかなぜ進んでいるのかが自分でわからなくても、歩みを止めない。
欲しいか欲しくないか、そのシンプルな2択でしかなく、まどろっこしいようで鋭く潔い歌詞が徐々に心と体に染み込んでいく感覚。

そして否定にも見える肯定を歌う藤原さん。

世間的には取るに足らない量産型でも誰かの世界には必要なピースであるが、必要とは言いつつ不在が生じても私の世界は続いてしまうね。
というのがこれまで藤原さんが描いてきた世界だった。
だがSWOはこう歌う。

誰が消えても星は廻る

Sleep Walking Orchestra

取るに足らない、とか、量産型、とか。
地位や社会的影響力関係なく、誰が消えても世界は続くんだ、と断言している。
自己否定を孕んだ卑屈な自意識からの解放を意味する深遠な肯定を感じ、これはBUMP(藤原さんの歌詞)史的な転換点ではないだろうか。

またらこれから聴き続けて、次があれば歌詞内の夢を主題に書きたい。
でも一旦SWOは中断する。
be thereが届いたので。
ライブ音源を聴き倒すので。



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