クロノスタシス×トーチ=邂逅
4/15(月)0:00に邂逅が配信リリースされた。
聴く時は万全で、をモットーにしているので、初めて邂逅を聴いたのはリリース翌日4/16(火)の21:00だった。
1回目と2回目は歌詞を見ないで、3回目は歌詞を見ながら、そして今4/17(水)の通勤中に邂逅を聴きながらこれを書いている。
昨夜1度聴き終わるたびに感想をメモしたので貼り付ける。
邂逅
【1回目】
クロノスタシスをより感情的にしたような歌詞。
クロノスタシスが瘡蓋だとしたら、邂逅はまだ血小板くらい。
でもこれは歌詞というより藤原さんの歌い方のせいかも。
邂逅とは事実ではなく希望。過去や今ではなく未来の話でこれはトーチと一緒。
死ぬまで塞がらない穴とまで別離を表現しながら、最後に希望(モウイチドアエル)を灯す。
悲しさ寂しさに振り切った声の湿度が重たく脳裏に響くような歌。
【2回目】
1回目ほど歌詞から悲壮感を感じなかった。
そもそも最初に必ずまた会えると歌っていた。
実は前向きな曲…?
【3回目、歌詞画像を追いながら】
なるほど、邂逅を計算式で表すなら
(クロノスタシス+トーチ)×悲哀
です。
望遠のマーチでの希望を意味しない朝、66号線での世に溢れる「死ぬほど」というレトリックへの徹底的な懐疑。
こんな感じのエッセンスを散りばめながら、死を解放のゴールテープのように見立てている。
クロノスタシスはコナンくんがまず乗っかっていたからフィクションの中の歌として受容できたけど、邂逅は少し毛色がことなっている。
触れたくない覗きたくない離れていたい妙な生々しさがこの歌にはある。
今の生活が予期しないところでポキっと折れて垂直に落ちていくような不安。
見たくないが必ずやって来るもの。
直視したくない未来。
なんというか、本当は恐ろしいグリム童話、みたいな。違うか。
残された側が、超えてはいけない壁の高さと正体を正確に認識して、壁の向こうから声が聞こえないかと、必死に耳をそば立てている。
精神が首の皮一枚で繋がっているような悲壮さを覚えた。
以上。
改めて読み直すと、クロノスタシスをフィクションとして受容したのに対して、邂逅は自分の人生への暗翳として受け止めているのに気付く。
これはこれまで藤原さんが扱ってきた歌詞世界の「死」が物語性から脱却している証左なのか、それとも、受け取る私の心境の変化か。
トーチは2014年にリリースされたアルバム、RAYに収録されている。
ベストアルバム2枚を挟むが、RAYの前作は2010年に発売されたCOSMONAUTである。
つまり東北地方を襲った大震災後に発売された最初のオリジナルアルバムがRAYであり、これもまた私の受け取り方次第だが、震災支援として緊急パッケージされたsmileを始めとした、生と死とそこにまつわる感情の滴りにフォーカスされている歌詞が多いように感じている。
件の災害による被害を私は受けなかった。
2014年に女川に一人で行ってみたりもしたが、やはり隔たりがあるのかトーチを自分事として受け止めることができていなかったのだと気付いた。
ではトーチではなかったリアリティを邂逅で感じたのは何故なのか。
通勤時間内で終わりにしようと決めていたのでここまでになってしまった。
この曲は私にとって重い。
これまで必ずと言っていいほどあった、藤原さんからの肯定を感じないせいだろうか。
たぶん私もそうなるし、
本当だろうか?と疑問に思ってしまう。
決して嫌いではないし、メロディや藤原さんの声はとても美しいと思う。
ただsouvenirのように通勤中ずっと邂逅を聴いていられるだろうか。
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