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ライブ音源版バイバイサンキューを聴いて思ったこと

2022年も相変わらず1年を通してBUMPを聴いていた。
通勤電車の中で、お昼休憩中に、帰路、買出ししながら、湯船に浸かりながら、何処かしらでBUMPをよく流していた。
そんな毎日を過ごしている中でオーロラアークライブでのバイバイサンキューを聴いていてふと思ったことがある。

あれ、この曲は今になって実はとんでもないメッセージが込められた曲になってるんじゃね…?

アンコールどうもありがとう!
という藤原さんの快活な声で始まるこのトラック、途中まではCD音源と変わらないリズムと音程で歌われている。
だが4分前後からぽつりぽつりと音源とは異なる音程、異なる歌詞が歌われ始める。

以下の歌詞が該当部分だ。
◆本来の歌詞
「これから先ひとりきりでも
うん、大丈夫
みんなはここで見守っていて
見守っていて
ひとりぼっちは怖くない(リフレイン)」

◆ライブでの歌詞
『これから先ひとりきりでも
うん、大丈夫
みんながここで見守っている
見守っていて

ひとりぼっちは怖くない(リフレイン)

君ともっと一緒にいたい』

ライブ版歌詞の最後の行を聴いて、冒頭の疑問を思い当たるに至った。

「もっと遊びたかったけれど、しょうがないよな」
日が暮れていくにつれ、一緒に遊んでいる友達が一人二人と帰宅していくのを、寂しそうな笑顔で見送るしかない男の子のような、あるいは麦わらの一味に別れを告げるメリー号の台詞、
「もっとみんなを遠くまで運んであげたかった」
を想起させるような、惜別と諦念が入り混じった想いを勝手に感じ取ってしまった。

というのもそもそもとして、わたしは兼ねてからBUMP OF CHICKENとはファンを失い続けているバンドだという認識を持っている。
ファンの喪失から逃れられる表現者がいないのは当然でありながら、大好きなはずのBUMP OF CHICKENに対してなぜこんな不名誉とも言える認識を持ってしまっているのか。
うまく言い表すのは難しいが、理由は大きく分けて3つあるように思う。

①活動歴の長さ
1996年にバンドを結成した彼らは2023年で結成26周年を迎える。
BUMP OF CHICKENが結成された当時わたしはまだ小学生だった(小学生のわたしはまだ彼らを知らないけれど)。
小学生が立派なおじさんになる程の年月の間ずっと、4人を核としたBUMP OF CHICKENという恒星が放つ引力に老若男女が引き寄せられてきた。
惑星のように恒星を中心に周回軌道を続ける人、衛星のように追従する人、彗星のように接近と離隔を繰り返す人、流れ星のように燃え尽きていく人…。
引き寄せられた人々がファンという集団を形成し集合離散を繰り返しながら規模を拡大させていく。
でもこれはBUMPに限らずどの分野でも起きている話。
あと余談だけど、多分恐らくきっと間違いなく開催してしてくれるであろう28周年の公転周期ツアーを今から楽しみにしている。パスファインダーみたいなツアーになるのかな。

②代表曲の浸透率と裾野の広さ
BUMPの代表曲の一つ、天体観測。
リリース時にはこの楽曲をモチーフにした火曜22時放送の連ドラが制作されたり、年間カラオケランキングの上位ランカー常連だったり、リリースからおよそ20年後にスバルのCMに起用されたりしている、世代を跨いで聴き継がれる一等星ソング。
今書いていて気付いたけど、すばると天体観測の組み合わせって字面だけ見たらハワイですね。
また26年の活動の中で映画やドラマやアニメ、CMに漫画にゲームにボーカロイドと数々のコラボレーションを果たしてきた彼らは、華のように皿のように作品を盛り立ててきた。
コラボした先々でBUMP OF CHICKENに惹き寄せられた人も少なくないのではないか。
コラボ先で興味を持った人が最新の傑作や過去の名盤と出会いファンとなっていく、そこには天体観測の存在が欠かせない。

一昨年の紅白なり昨今のCMなりネットのネタなり、天体観測を耳で目で既に知っている方々はきっと多い。
数度かフェスに行ったことがある経験から思うに、知っている、という事実は興味を持ってから次の行動に移すまでのハードルをぐっと下げてくれる。

バンプって知ってる、見えないものを見ようとしている人たちでしょ

という方たちにとって天体観測は、バンプが創った宇宙で瞬く星たちを見つける望遠鏡になりえる。

③残される側の視点の歌詞
先述した通り、BUMP OF CHICKENはファンを失い続けているという認識を私は持っている。
喪失とは新規ファン獲得とセットであるから彼らはスタジアムツアーをソールドアウトさせているのだが、時にセンシティブでセンチメンタルな見方をしてしまう私は、マイナス面にフォーカスしてしまいがちだ。
そんな状態の時にバンプの楽曲を聴いていると、藤原さんの書く歌詞にハッとする時がある。

君の生きる明日が好き
その時隣にいなくても
◆グッドラック(2014年)

僕らの間にはさよならが
出会った時から育っていた
◆アリア(2016年)

ゴールに僕の椅子はない
それでも急いで走った
◆GO(2016年)

(◆→タイトル、()内はリリース年)

国語のテストのように作詞した人の心情を探るのは正直無益だと思うし、藤原さんも過去に「歌詞から俺らを探さないで」といった旨の発言をしている(確か結構前のロッキンか何かのインタビューで。詳細失念)。

ただ三ツ星カルテットやfirefly、モーターサイクルや孤独の合唱あたりの自己言及的な楽曲たちを聴くとなかなかそうもいかなくなる(fireflyと孤独の合唱なんかは特に)。
Kや車輪の唄に出てくる別れは物語として受容できるのだが、思いの丈を歌詞に忍ばせるようになった藤原さんが書く別れは、本当に歌詞世界の中でしか機能していないのか…?
こんな疑問が頭を過ぎってしまってから、教えに背く行為とは思いつつも、この小宇宙を作りたもうた主の思し召しを歌詞から探すようになってしまった。

長くなったが以上3つがBUMP OF CHICKENがファンを失い続けていると感じる理由だ。

バイバイサンキューの話に戻る。
この曲は餞別の歌だ。
うろ覚えだが、地元を離れる先輩に贈った歌ではなかったか。
見送る人が旅立つ側の視点に立って綴った当時の歌詞が、ドームを埋め尽くしたファンを、やがて離れていく大群へと変換させ、ライブ版の歌詞が口を突いて出てきたように私は感じた。
アンコールの1曲目だから、まだまだライブをやりたいぜという意味の可能性も当然ある。
それでもあの抑揚で歌い上げた『君ともっと一緒にいたい』の言外に、厳然と存在する前提としての離別をどうしても勝手に受け取ってしまった。

(時間的ではなく心理的な意味でのお別れがやがて間違いなく来るのは知ってるけど、それでも、だからこそ、)君ともっと一緒にいたい

という叫び。

ただ忘れてならないのは、その気持ちを染めているのは悲哀ではなく湿り気のない「また、いつか」である。

いつか旅に出るその時は
迷わずこの歌をリュックに詰めて行ってくれ
◆ダイヤモンド(2000年)

大切な人に唄いたい
聴こえているのかもわからない
だからせめて続けたい
◆真っ赤な空を見ただろうか(2006年)

出会えたあなたの側で
力一杯今も歌ってます
◆ぼくのうた(2008年)

あなたのためとは言えないけど
あなた一人が聴いてくれたらもうそれでいい
◆pinkie(2010年)

終わりまであなたといたい
それ以外確かな思いがない
◆ゼロ(2011年)

お別れした事は
出会った事と繋がっている
(中略)
大丈夫だ
この光の始まりには君がいる
◆ray(2014年)

一度でも心の奥が繋がった気がしたよ
冷えた手が離れた後もまだずっと熱いこと
◆宝石になった日(2016年)
◆アリア(2016年)※2024年3月5日訂正

忘れたって構わない
ついていくよメロディ
◆孤独の合唱(2016年)

藤原さんが離別に対して一貫したスタンスを取っているのがわかる。
どの歌詞にも共通して言えるのは彼らが常に留まり続け、メリークリスマスのMVのように通り過ぎていく人の背中へも楽器を鳴らし喉を震わせている点だ。

以降は藤原さんの声で再生してもらいたいのだけど、
一度その耳に届いたんだから、この曲は君のための歌になった。
また聴きたいと思ってくれた時のために俺たちはここにいることを選んでいる。
という気持ちの表れのように私には見え、これらの歌詞からは

「君のために曲があり、曲のために俺らがいる」

という彼らの哲学を強く感じる。

常に彼らへのドアは開け放たれている。
そのドアに鍵はなく、ようこそもいってらっしゃいもおかえりも全部ありだ。

さっき喪失と獲得はセットと書いた。
つまりこうも言えるのではないか。

BUMP OF CHICKENとはファンを失い続けると同時に、ファンと出会い続けているバンドである。

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