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Vol.17「曹洞宗」

『禅苑清規』(ぜんねんしんぎ)

現在の仏教葬儀は浄土真宗系を除いて、死者に仏教の戒律を授ける授戒や引導が中心となっています。その儀礼の原型は禅宗(曹洞宗)にあると言われています。
インドでは火葬の際に『無常経』をあげる程度でしたが、中国に入ると儒教(じゅきょう)の葬送儀礼の影響を受けて儀式を整えていきます。
特に影響を受けたのが禅宗で、1103年に書かれた『禅苑清規』が葬送儀礼の原型と言われます。
禅宗の葬儀は、出家した僧侶の葬儀の仕方を定めた尊宿喪儀法(そんしゅくそうぎほう)と、修行の途中に亡くなった僧に対する葬儀の仕方を定めた亡僧(もうそう)喪儀法の2つに分かれていました。
この亡僧喪儀法が、浄土教や密教の影響を受けて念仏や往生祈願なども採り入れ、発展して武士や在家の葬法「檀信徒喪儀法」になり、制度化されました。
死者にお経を読んで仏の悟りを得させ、僧にする印として剃髪し、戒名を授けます。そして引導を渡し成仏させるのです。
いわゆる『お葬式』の原型はここにあります。
(碑文谷創『葬儀概論』在家葬法の原型より引用)

「只管打坐(しかんたざ)」

ただひたすらに座禅を組む。
自己への執着こそ苦悩の本質だと説き、「」を追求した道元
その道元が広めた曹洞宗とは、どのような宗派なのでしょうか。

高祖道元禅師

曹洞宗は、菩提達磨を祖とする禅宗の一派で、中国が唐の時代に活躍した二人の僧、山良价(とうざんりょうかい)と山本寂(そうざんほんじゃく)の師弟から分かれた系統が、この二僧の頭文字をとって曹洞宗と名付けたことにはじまります。濁らずに「そうとうしゅう」と読みます。
この曹洞宗を日本に伝えたのが道元です。

道元(どうげん)は14歳で出家し、比叡山で厳しい修行に臨みます。
そこで道元は、「本来本法性 天然自性身」、人は生まれながらにしてすでに清浄で、もともと悟りを得ているという天台教学の言葉に疑問を抱きます。
もともと悟りを得ているのならば、人はなぜ厳しい修行をするのか。
この疑問に答えてくれる僧はおらず、わずか2年で山を降り、答えを探し求めます。やがて建仁寺の栄西の元へたどり着き、中国から伝わったに魅力を感じます。

道元は24歳の時、宋(中国)に渡ります。
中国曹洞宗の僧侶・如浄を理想の師と仰ぎ、古風な曹洞禅の修行に没頭します。やがて、肉体も精神も一切の煩悩から逃れて自由自在の境地「心身脱落」に至り、如浄から弟子の悟りを証明した印可状・嗣書(ししょ)を授けられて帰国します。

日本に帰ると建仁寺に入り、『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著し、自身が伝える坐禅はお釈迦様から続く正伝(しょうでん)の仏法としてすべての人に坐禅修行をすすめます。
しかし、密教などの兼修を否定して禅専修を強調した道元に比叡山が反発。
道元は京都での布教を断念し、福井県に永平寺を開山。
朝廷や幕府などの権勢から離れ、ひたすら厳格な修行を貫き通しました。

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太祖瑩山禅師

道元の死後、永平寺では後継者をめぐる争いが起こります。
その分裂の危機を回避し、一元化したのが瑩山(けいざん)です。
瑩山は能登に總持寺(そうじじ)を開きました。そこを拠点に、在家信者を受け入れるために民間信仰を取り入れ、加持祈祷を行うなどして信徒を増やしていきました。

二つの大本山、二人の祖

總持寺は明治時代に大火に遭い、能登から横浜市鶴見区に移転しています。
永平寺と總持寺はそれぞれ大本山として認められています。
一つの宗教法人で大本山が二つある宗派は、曹洞宗のほかにありません。

臨済宗は朝廷や幕府の庇護を受け、京都や鎌倉など都市部を中心に貴族や上級武士の間で流行りました。対して、曹洞宗は地方を中心に、豪族や下級武士、農民の間で広まりました。
現在では末寺約1万5000寺を数え、寺院数では浄土真宗に次ぐ大教団です。

道元は「禅宗」という言葉を嫌い、自身の教えは宗も派もなく「仏教」そのものだと主張しています。曹洞宗という呼び名を広めたのは瑩山です。よって、曹洞宗では宗祖という言葉は用いず、両祖という独特の言葉で表現します。
道元が基礎を築き、瑩山が広めた曹洞宗。
道元は高祖(こうそ。法統の祖)、瑩山は太祖(たいそ。寺統の祖)と呼ばれ、同等の祖として考えられています。

曹洞宗のお葬式

曹洞宗の葬儀は在家の葬儀儀礼、檀信徒喪儀法に則って行われます。
授戒引導に中心が置かれます。

引導法語(いんどうほうごう)では、導師が故人の生前を漢詩で表し、松明(線香)を右回り、左回りに円を描いて故人を悟りの世界に導きます。
払子(ほっす)と呼ばれる先に毛のついた棒で迷いと邪気を払い、故人へ法語を贈ります。
仏の道へ迷わずに進めるよう導く「引導」を渡します。
引導の最後の方で導師が「‼️」を入れます。

曹洞宗の焼香

曹洞宗の焼香の回数は、2回です。
1回目は「主香(しゅこう)」といい、抹香をつまんで額に押しいただき、故人の冥福を祈って香炉に入れます。2回目を「従香(じゅうこう)」といい、主香が消えないように抹香で補う意味なので、額に押しいただかずに香炉に入れます。

線香は1本だけ立てます。

曹洞宗の本尊

曹洞宗に本尊のこだわりはありませんが、基本的には釈迦牟尼仏です。
脇侍は、向かって右に道元(承陽大師とも)、左に瑩山(常済大師とも)を祀ります。曹洞宗では「一仏両祖」として、釈迦牟尼仏も道元も瑩山も同等に尊崇します。

只管打坐

禅宗は「坐禅」を修行の根本にしています。
坐禅によって悟りを開かれたお釈迦様の追体験をすることで、悟りの境地を味わおうとしています。
道元は、“只管打坐(しかんたざ)”「ただひたすらに坐禅に打ち込む姿こそ、仏の姿である」と説きます。また一方で、「禅修行は坐禅に限らない。日常生活のすべてが修行である。」とし、仕事のときは仕事に、食事のときは食事に、掃除のときは掃除に全力で打ち込む。
行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、歩き、止まり、座り、臥す。
日常のすべてが修行になります。
庭掃除から建物の修繕まで、一切の作業を修行僧が行います。
これが「作務(さむ)」です。
作務の時に着る服を作務衣と言います。

それぞれの坐禅の違い

曹洞宗の坐禅は、心を平静にして行う『黙照禅(もくしょうぜん)』です。
達磨大師の面壁九年と同じように、壁に向かって黙々と坐禅に打ち込みます。

臨済宗の坐禅は、公案(禅問答)について考え抜き、悟りを目指す『看話禅(かんなぜん)』です。対話を重んじるため、修行道場では壁を背に、向かい合って坐禅を組みます。

黄檗宗の坐禅は、臨済宗とほぼ同じですが、心で念仏「南無阿弥陀仏」を唱えます。

警覚策励(けいかくさくれい)

坐禅で、肩や背中を叩く精神注入棒、あの棒をなんて言うかご存知ですか?

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あの棒のことを警策といい、曹洞宗では「きょうさく」、臨済宗では「けいさく」と呼びます。警覚策励の略で、坐禅修行を励ます意味があります。

臨済宗は壁を背に坐禅を組むので、警策(けいさく)は前からいただきます。合掌をしてから片手をついて、左右それぞれに三打ずつ連打します。

対して曹洞宗は壁に向かって坐禅を組むので、後ろから警策(きょうさく)をいただきます。右肩に警策を軽く当てられたら、合掌して首を左に傾けます。すると、右肩に一打、警策を与えられます。

右肩だけに警策をいただくのは、左肩は僧侶が袈裟(けさ)を掛けるからです。

禅宗では、師から弟子へ教えが伝わることを「衣鉢(いはつ)を継ぐ」と言います。衣は袈裟、鉢は托鉢に用いる器を意味し、教えとともに師から授かります。道元は特に袈裟を身につけることの意義、僧侶の自覚を持つ大切さを説いています。

ZEN

iPhoneやiPadなど、人々のライフスタイルを大きく変えたアップル社の故スティーブ・ジョブスが、ZEN(禅)に傾倒していたのは有名な話です。
曹洞宗の国際布教師として渡米していた乙川弘文(おとがわこうぶん)と出会い、禅堂に通い詰め、禅の精神を学びました。
ジョブスの結婚式も仏式で執り行われました。

欧米ではZENは、信仰というより、ライフスタイルの一つとして
とらえている人が多いようです。

一つのことに集中し、シンプルに生きる。

坐禅によって心を空っぽにして本来の自分を見つけ、煩悩から解放される。
すべては「気づき」であり、そうしたことで「心の安らぎ」と「新たな発想」が得られるかも知れません。

皆さんも坐禅を組んでみてはいかがですか?  

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座禅イラスト きむら

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