香川県の例のゲーム条例

 私がわざわざ扱うまでも無く、既に我々に様々な話題を提供している香川県のゲーム条例を少し考えてみよう。

 この条例の良い点、悪い点をまとめるとこうだ。
良い点:我々に話題を提供した事
悪い点:それ以外

 冗談はさておき、どちらにせよ、良い物ではない。まず思い浮かぶ問題は、果たしてこれは有効に作用するのだろうか?という疑問。法律で薬物禁止!と規定した所で、月に一度くらいは有名人のそうした騒ぎが報道されるし、報道されない一般人をも含めれば尚更だろう。そうした物と同様に仮にゲームが悪だとして、この条例を推進している者は、それを言葉(文章)にする事で効果があると思い込んでいるに違いない。しかし、どう考えても効果は無いだろう。効果がないだけならばまあ良いが、我々(あるいは香川県民)個人の自由に踏み込んで来ているのはおかしいし、ゲーム以外に禁止した方が良い物はいくらでもあるだろうに。これは第一の問題に挙げられる。呪術的で、効果が見込めないという問題点だ。人を呪う方法として文字化するという方法がある。「食べ物を粗末にする奴は飢えて死ね!」だとか、「金を返さない○○は地獄の炎に焼かれて歯ぎしりしながら悔やんで死ね!」といった言葉を石板に書くとか、そういうのだ。この条例もそのような呪術の一種に近い。「一日一時間以上、あるいは夜十時以降にゲームする奴(子供に限る)はぶっ殺す!」みたいなもん。問題なのは、こう言う考え方に元から親近感がある保護者の根拠になりかねない事だろう。何故子供がゲームに熱中しているのか、一度自分の胸に手を当て、よく考えてみた方が良い。

 ゲーム害悪論はいろいろあるが、これもそうした数ある取るに足らない妄言の一つに過ぎない。典型的な父権主義的な組み立てで、ゲームという結果を禁止すれば、先立つ原因とは無関係に「健全な」青少年が育つ、という事になっている。
 『東大卒プロゲーマー 論理は結局、情熱にかなわない』を読むとわかりやすいが、ゲームなんかよりも面白い事柄は誰にとっても存在する。それは例え子供が相手であったとしてもだ。結果として現れているというのは、ゲーム以外に「なぜか」楽しめる物が存在しない事、あるいはゲーム以外の楽しみを伝えられない環境が原因にあるという意味だ。これが第二の問題点だ。
 子供の環境を作るのは、訳の分からん条例を作っているのと同じ大人だ。自分自身の存在が原因としてあるのにも関わらず、それを結果として現れているゲームに擦り付けている。その擦り付けがこの条例という訳だ。こんな条例を作るくらいなら、もう少し勉強の楽しみが伝わるような教育を目指すだとか、自由に遊べる公園を作るだとかした方が良い。大体、人に強制されると反発する。我慢をすればその分気合いになるとか、そういう根性論は昭和までにしておいて欲しい。

  第三の問題に挙げてもいいのは、そもそもこうした条例を作ろうという発想が現われる人間が政治の世界に居る事かも知れない。政治家は能力があるからこそ成れるのではなく、残念ながら、票を集めた人がなる。もしかすると、こういった条例を作ると喜んで投票するジジババが多いのかもしれない。

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