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スパチャとの邂逅

 まず初めに宣伝をば。『アンチガチャ』がたぶん20日までは無料キャンペーン中ですので、気が向いたらどうぞ。
 

 さて、本題に移りますと、タイトルにあるようにスパチャ。これはYouTubeにある機能の一つで、スーパーチャット、いわゆる投げ銭のことですね。
 YouTubeでゲームの動画を漁ることは今までもあったものの、ライブの場合にはtwitchで見てることが殆どで、スパチャを初めて見たときは「おお~これがスパチャか~」みたいな気持ちになった。あまり興味がない有名人を生で見たときの気持ちは、きっとこんな感じになると思う。マジで「ナイスパ!」とかいってるし。なんだその掛け声は。実在したのか。
 まあ、twitchでも投げ銭みたいな機能はあるのだが、特に掛け声があるような印象はない。そういう配信ばっかり見ているからかもしれないけど。

 スパチャそれ自体があることは何でもない。これは価値があるのかないのかといった判断ではなく、問題であるようには思えない、という意味ですけども。
 しかし、他人のそうした行為をわざわざ肯定するような行動をする、というのは一体何なんだろう、みたいな気持ちにもなる訳で。これこそ趣味とか、あるいはtwitchとYouTubeの文化とか、民のノリの違いでしかないのかも知れないけども。
 投げ銭というのは、好きなやつとかやりたい奴が勝手にやるものであって、そのことが公開されるとか、あるいは評価されるとか、そういうことが積極的に行われて良いのかどうか?という疑問がこの気持ち悪さの正体だろう。物事を評価する方法というのは、いくつかある。価値の基準というのも、いくつかある。そのうち、スパチャが立脚する価値観というのは経済的な、つまり金の世界に思える。

 大道芸人が何か芸をしている場面をちょっと想像し見て欲しい。そこで、誰かがこう、帽子に小銭を入れた。そうすると周りの観客の何人かが「ナイゼニ!」とかいう。なんか変な気がしない?
 大道芸人本人が言うならまだわかる。別に「ナイゼニ」では無くてありがとう~~みたいな一言でも良いわけだし、特に無反応であっても構わん。でも、観客がいうと「お前がそれ言うの?」って気分にならんだろうか。

 大道芸人のそうした路上での芸は、金のためにやっているというよりかは、好きでやっているのだろう。もちろん、そうした活動の先に商業的な成立が据えられていたりはしよう。ただ、目の前のそれは、「まあちょっとくらい金になると嬉しいかな」位ではなかろうか。
 それなのに、周りの観客が商業的な価値観、つまり金を持っていれば持っている程偉い奴、みたいな価値観を押し付けてくるというのは、いかがなもんなんだろうか。金での評価というのが押し付けられている。これを例えるならば、何でも金の価値に換算して考えているような奴だ。年収で結婚相手を決めるようなアレだ。嫌でしょう?そういうの。「おっ、お前この配信に金払ってるな。俺はお前を認めてやるぜ」みたいなもん。あるいは、金を払うことが承認されることだ、みたいな土壌形成に貢献している。

 こうした意味であの掛け声は、つまり、別の価値観を金に変換するコンバーターなのだ。水を売るにしても、ただ単にそれを売るよりも、近くの井戸に毒をばら撒いてから売った方が売れる。金銭的な価値が上がるという訳だが、これは井戸水という価値を減じることによって創出されたものだ。ここにも価値の変換がある。金だけが社会の価値じゃない。例えば、ふたばの怪文書には書く側にも見る側にも、一切の金銭的価値が発生しないが、楽しみという価値は間違いなく創造されている。

 とはいえ、モデレーターに消されるかもしれないがチャットする自由は基本的にある。BANされてなければ。嫌ならチャット欄を隠すという選択肢もあるし。しかしまあ、人間関係を金に変換するキャバクラとかホストみたいな、そういうなんというかまあ、うん。そういうアレを感じずにはいられなかったのですね。

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