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RTA in Japan2019の感想と私の本の宣伝

 年末にtwitchでとある配信を視聴していたところ、左側にあるおすすめ欄(というのかは知らんが)にRTAinJapanというチャンネルが配信しているというので、ちょっと覗いてみた。RTAというゲームの遊び方それ自体は知識としては知っていたのだが、実際にこうして見る機会は、恐らく初めてだった。
 私が見た時は丁度、『夏色ハイスクル』のRTAが始まる前のインターバルだったので、始まるまでしばしば待っていた。最初は少し見てみるか、といった程度だったのだが、最後まで画面に食い入って見ていた。これはぜひ皆さんにもおすすめ。筆者もしばらくは過去の放送などを見る事にしている。
 ここからが本題だが、RTAの楽しみを考えてみよう。

 ここからが本題とは言いつつ、商品性娯楽性といった各種用語は過去の記事か、つい先日発売した『ゲーム原論』を参考にして頂けると思います。こちら、1月5日から同9日まで無料キャンペーンの予定ですので、是非お手に取ってお友達お知り合いご家族の方に紹介して頂けると幸いです。

 RTAに話を戻すと、RTAはゲームをクリアするまでの時間を競う競技、というのか、遊び方の一つだ。走者(RTAに限ってはプレイヤーではなく走者という)に対して優位に現れるのは狭義の娯楽性的な最適化だ。
 この狭義の娯楽性的な思考に特徴があるとすれば、非常に強い強度でプレイヤーがゲームを遊んでいるという事を挙げられよう。つまり、ゲームから提示するルールを無視して、プレイヤーが好き勝手なルールで、楽しく遊んでいるという事だ。『ゲーム原論』で問題として指摘した、プレイヤーがゲームの目標に依存し、ゲームの目的がプレイヤーの目的と同化しているような状況とは、正反対の態度がプレイヤーに現れている。こうしたプレイヤーの態度、あるいは楽しみ方は強く肯定すべきだ。個人的にもこれこそがゲームの楽しみだ、という気分になるし、実際このような楽しみ方は非常にゲーム的な物だ。

 ただし、先にURLを貼ったように放送するとなると、広義の娯楽性的な楽しみが優位に現れる事になる。それと、解説の存在も必要不可欠だろう。というのも、何をしているのかの解説が無ければ、さすがに理解できるものではない。そうした意味で、話術、つまり広義の娯楽性的な楽しみと、画面で起きている事の面白さ、RTA in Japanの放送に限って言えば走者の仮装など、そうしたコミュニティ的な楽しみ強くが現われる。コミュニティ的な楽しみ、つまり広義の娯楽性的な楽しみについては特に扱わない。これは放送される物の内容は関係なく、映像作品としての完成度が判断の基準とされるためだ。
 ただしRTAが異なるのは、出演者の人格的な物が現われているというよりかは、ゲームそのものの楽しみが視聴者に現れる点だろう。そのような意味で、ゲームのそのものに近い物が現われているという事が可能だ。

 最後に、RTAされるゲームについて考えてみよう。RTAされるゲームは閉じたゲームである必要がある。そういえば、平いたゲーム、例えばブラウザゲームなどはサ終の後には文字通り跡形もなく消えてしまうという問題があるだろう。そうしたゲームを保存する活動も行われているとも聞くがともかく、開いたゲームは傾向として、こうした遊ばれ方には不向きだろう。部分的に開いたゲームに特徴的な通信機能が現われるとしても、ゲームの根幹、つまり多くの場合でのストーリーの進行は閉じていれば差し支えないだろう。

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