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作業について

 今回はちょっと軽め。

 「作業」という言葉をゲームに関係する文脈で聞いたときは、否定的な評価を伴っている事が殆どだろう。
 作業は二種類ある。プレイヤーの好みの問題で作業呼ばわりされる物と、誰がどう見ても作業に違いないという物、この二種類がある。どちらにせよ、作業は自然現象や自然法則の類ではないから、人間が作ったものである。人間、つまりゲームの製作者、もしくはプレイヤーに属する問題として作業が現われる。

 後者の、誰がどう見ても作業に違いないコンテンツというのは、プレイヤーの関与はないだろう。製作者の何らかの都合で現れる。何らかの都合というのは、製作期間や予算や人員が明らかに足りてない、能力的な問題、等々その他。
 対して前者の、プレイヤーの関与する作業というのも確実に存在する。作業というのものは、製作者かプレイヤーかの完全なる責任の上に存在している訳ではない。

 作業をどう定義するか詳しく論じる事はしないが、やりたくない事を延々とさせる、あるいはさせられる状況を作業と呼ぶ事が多いだろう。
 ゲームの目的は、やっている事自体が楽しいと思える環境を整える事である。この目的から外れているという点から考えて、作業の存在はゲーム的ではない。あるいは、プレイヤーがゲームのルール(遊び方)を無視した遊び方をするような場合にも作業が現われるだろう。
 ここでは特に、ゲームのアイテムなどの入手を目的にするプレイヤーの心理を扱う。
  ゲームに登場するアイテムにはそれ自体に価値がある訳ではなく、入手の過程やその証明に価値がある。どういう事かというと、やっていて楽しくない事をしてまでアイテムを得ようとするようなプレイヤーの行動はゲーム的ではない、という事である。このような場合に、報酬として得られるアイテムや作業の先に目的がありかつ楽しめてない場合にはこれは作業といって差し支えない。
  このような場合でも、ゲームそれ自体が不出来、あるいはそもそもプレイヤーに作業を強いる目的で設置されているコンテンツが存在する事も確かだ。この両者を完全に分離する事は非常に難しいだろう。このような意味で、作業はゲームの設計者とプレイヤーとの間とに存在するものといえる。

 我々プレイヤーがゲームに奉仕する必要は無いし、ゲームに奉仕する事が楽しいプレイヤーが存在してはいけない理由もない。要は、自分の楽しみをよく考えて、自分の楽しみを第一にゲームと接する事が大事になる。ゲームの設計者の都合で現れる作業はともかく、プレイヤーの都合で現れる作業の存在からは自由でいるべきだろうし、そういようと思えばそういられる。目先のアイテムなどに囚われず、自分が楽しくゲームをする事が一番大事だ。

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