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遊戯王マスターデュエル批評 

前置き


遊戯王マスターデュエル(以下MD)について少々。有識者やガチ勢の方々から見れば温い内容かも知れませんが、あまりいじめないで下さい。書いている最中にアプデが挟まる形になり、やや時代についていけていない記述が散見されますが、通してください。

ゲームとして


まず、MDにも良い点悪い点があるけども、それがMDに固有のものであるのかあるいは本家(つまりOCG、紙の方)と共通した問題なのかを、ある程度は分けて考える必要がある。いわゆるソリティアだとかは、MDになって降って湧いたようなものではなく、OCGに元から備わっているインフレ傾向を引き継いだものだろう。ただし、MDだと対面のコミュニケーションとして成立していないから余計に感じが悪い、みたいながものがあれば、それがMDに固有の問題であるとはできるだろう。他にもコイントスで切断だとか、先手取れなかったので即サレだとか、こういったものもMDに属する問題のように思える。もちろん、プレイヤーの人格なり何なりの問題という捉え方をすれば、MD固有だとは言えない。ただ、1ターンに7分の制限時間はあまりにも長くはないかだとか、Botがわらわらといったものは、明らかにMD固有の問題だろう。OCGの対戦相手も宇宙人が地球探査のために潜らせているBotである可能性があるかもしれないが。

MDの問題ないし不都合と真っ先に感じる、住み分けの問題がある。住み分けというのは、いわゆるガチ勢とそうでもない勢との差は、実際のデュエルの場においてはあまり考慮されていないように思える。どちらかというと視線が下の方に向く人と、上ずっている人との差ないしは、嗜好というのが区別されていない。正確には、勝てば何でも良かろうなのだ、みたいな人しか評価されていない。この勝利至上主義は、何もできなくておもんないソリティアと切断とサレンダーを影から支えている。ように思える。回線よわよわの民は知らない。
ソリティアに関して付け加えれば、あまり変化がないルールの範囲において安定して勝利することを目的とするとなると、相手に何らの行動をもさせない、といったものになりやすいことにも原因がある。剣の達人同士の勝負では、お互いなんもしないで立っているだけに見えるのに、あるとき突然片方が「参りました…」とかいう、あんな感じ。剣の達人同士であれば、相手の技量に敬意を払って「仕方ねえ…」「流石だ…」みたいなある種の畏怖の念が湧いてきそうなものなのだが、ソリティアを相手にしてそんな気持ちになることは、普通の感性であればないだろう。

では、上記の両者、ガチ勢とそうでもない勢との区別というのは果たして可能なのだろうか。解決案を出せといわれると、デッキの自由度を縛る方法が真っ先に思い浮かぶが、これはあまりにも雑だというのが第六感でわかる。ゲームの公平性やプレイングが勝敗に与える影響にはともかく、カードゲームとしての面白さを大きく損なう。つまり、レンタルデッキみたいなのがあり、それでガチ組とカジュアル組とに分かれていて、そのどちらかを選んで参加するといったものだ。正直、そういうのがしたいのであれば将棋とか麻雀をした方が良い。デッキ構築の楽しみが跡形もなくなるし、カードをガチャで販売するという商品としての形態とも真っ向から対立する。

どのようにしてデッキを区別するのかも難題だ。例えば、コスト制のようなものを導入するのだろうか?コスト制にしても個々のカードのコスト設定が妥当であるのか、特定の組み合わせは強力であるのでさらにコストを課すのか、といった諸々の手間を考えると、素人目からしてもあまり現実的には思えない。似たような発想としては、先日行われたNRフェスティバルが思い浮かぶ。あれが成立したのは、それらのカードパワーを純粋に吟味しているからではなく、レアリティという基準として単純明快であるものを据えたためだ。レアリティはカードの環境における有用性をも明確に反映したものとは言えないだろう。例えば同じSRでも、サイコショッカーと何か最近になって登場したつよつよカードが果たして等価であるのかは、疑問だ。仮に、カードそれ自体での、あるいは特定の組み合わせでのさらなるコストの上積み、といったことを頑張ってやったとしても、一時しのぎにしかならない。
カードが追加されるたびに全部見直すとか、あるいは制定以降に発見されたり、環境から現れた組み合わせといった全ての事柄に対して、迅速かつ正当に、そして継続して行えるのだろうか疑問だし、それに見合った成果が上がるのかも、正直疑わしい。そもそも、遊戯王でコストってなんだ、みたいな話もあるし、コストが妥当な値に設定されるのか、あるいは妥当なコスト値などというものが実在するのか、といった疑問が次々と浮かび上がってくる。

これには筆者の効果欄よりもイラスト欄に視線が集中する趣味が色濃く反映されているであろうと先に断っておくが、勝利の価値を下げるような方策が住み分けのためには必要なのではないだろうか。不特定を相手とした対戦の場における勝利の価値を下げる代わりに、ゲームの中身、つまり展開や読み合い、自身のデッキの構築などから現れるゲームの楽しみが、より価値を持つような環境が求められているのではなかろうか。もちろん、これらは先に述べたような立場を自認する人間の主張であるから、比較的ガチ勢に寄った意識は汲み取れていないだろう。ガチ勢もゆるふわ勢もそれぞれの楽しみ方で良いと思うのだが、少なくとも住み分けは必要だろう。こうした、比較的「カジュアル」な環境とは別に、あるいはそうした環境の上部に、勝利至上主義の環境があった方が良いのではなかろうか。他にも、思い切ってランクや対戦報酬、デイリーの類もそうした勝利至上主義の環境でしか現れない、などにしてしまっても良いような気もする。もちろん、現実にこれらが可能であるかどうか、というのは全く別の問題だが。

こうしたデュエルの行われる環境に加えて、実際のデュエルにおいても、相手が何をどうしたためにこうなったのか、理解しやすい環境があまり整っていないように思える。リプレイ機能があるにはあるのだが、あまり便利なようには思えなかった。既に相応の知識があるデュエリストであるならば充分だろうし、Twitterなどで有識者を招集するとか、おもしろないしむなくそ動画を投稿するには恐らく不足しないのだろうが、よくわかっていない人には優しくない。「あれ、なんでこのカード発動しないまま墓地なの?」みたいなことが割とある。リプレイ以前に、ゲームの最中に通知があるべきなのだろうけども。他にも例えば、効果を使ったかどうか、召喚権利を行使したのか、ターン1の効果はもう既に使ったのかどうかが人目で判明するようなものだとか、UI周りの改善の余地は多いと思う。覚えておけ、というのはごもっともなのだが、戦闘で破壊された、効果が無効化されている、みたいなものはあるのでついでだと思って付け加えて欲しい。ただ、以上で述べた内容というのは、どちらかというと公式アンケに載せるべきなのだろう。

こうしたデュエルに係る情報や知識といった部分では、広告業者に任せるのではなく、公式でも環境の周知に対して今以上に積極的になった方が良いのではないだろうか。カードを売るにしても、購入する側にそのカードをしっかりに考えて評価できなければ、詐欺―というのは言い過ぎかもしれないが、鯖トレの二歩くらい手前にあるか、少なくともあまり誠実ではない。
この機能が提供されているかいないかでいえば、ネットの検索で出てくる以上は提供されているのは確かなのだが、やはり信頼ないしは信用の問題が着いて回る以上、公式が責任を持って周知すべきなのではないだろうか(公式が頓珍漢なことをしないのは大前提だけども)。知識については、徐々に覚えていけば良いだろう。話は前後するが、ゲームの駆け引きが成立するためには、相手がどのようなことをしてくるのかをある程度は知っていないことには成立しない。殴られて覚える、のもそうなのだろうけど、やはりなぜなにこうなったのかがわかりやすいことは重要だろう。天空闘技場方式が極まると良くない。

商品として


最後に、MDがどのようにして商品であるのかを検討したいと思う。これは本家OCGと重なる部分が少なくない。一致するものとして、いわゆるパックを通じた販売である点を挙げられる。先にも述べたが、端的にはガチャだ。とはいえ、ガチャにも種類がある。いわゆるソシャゲのガチャにおいて排出されるアイテムは、他のプレイヤーとの取引に積極的ではない。この特徴は、MDには該当するが、実物が存在するOCGに対しては当てはまらない。MDでは一応、分解と生成というシステムがあるが、これはプレイヤー間での取引ではない。MDの商品としての成立は、月額の利用料などといったものではなく、こうしたカードの入手機会を主としていることは違いない。このため、カードの販売機会は重要視されて当然だ。このことは、ゲームであることにも少なくない影響を及ぼす。こうした姿勢は、ゲーム内でのtipsにも反映されている。つまり、勝てない時はショップでカードを見つけよう、といった趣旨のものがある。
もちろん、無料で全てのカードが解放されているのであればそれに越したことはないが、何もMDは慈善事業ではないし、コナミも慈善団体ではなく営利を目的とする株式会社である。しかし、商品とゲームとの境界があまり意識されていない、あるいは両者を可能な限り分離しようという意識もまた薄いように見受けられた。こうした主張は駅前などで寄付を迫るようなものを目的としている訳ではないことを強調したい。この批評は営利を追求している訳ではなくゲームの擁護を目的としているので、そのことに対してはある程度のケチを付けて、相対化しているに過ぎない。

MDは何を提供しているのか。消費者に対しては以上に述べたように、カードを提供している。では、プレイヤーに対しては?
現状がどのようになっているのかはともかく、プレイヤーに対して提供すべきであるのは商品ではなく、その先にある環境、言い換えればゲーム体験であろう。カードの入手がゲーム体験といえばそうなのかも知れないが、それをゲーム体験とできるかどうかには議論があるべきだ。
現状のゲーム体験があまり良いと感じられない、というのは先に述べた通りだ。快適なゲームを体験を提供する場ではなく、ゲームを通じたカードの入手機会を提供する場としての意識が強い。比較的短期間のうちにリセットされ降格もないランク制は、マッチングにおける個々のプレイヤーの技量の均衡を目的としたものというよりかは昇給の報酬をこなす場としてあるように見える。プレイヤーに対して提供するのが快適なゲーム体験であるというよりかは、ノルマのようなものに感じられる。
ここで話が戻ってくるのだが、そうした場を通じてプレイヤーにカードを購入してもらおう、という意図は間違いなくある。こうした意図はもちろんあって良いのだが、あまりにゲームと商品との区別が不明瞭ではないのか、というのが個人的な感想になる。カードという意味でも知識という意味でも、最低限―というのがどの程度であるのかは議論があるにして―のライン、少なくともカードないしデッキについてはもっと保証されており、その範囲から外れた部分では課金ないしまとまった数のジェムが要る、といった方式の方が、商品としてはともかく、ゲームとしてはいくらか望ましいものになるのではないだろうか。

個人的な告知と宣伝


最後に告知をば。4月8日から同12日まで、昔書いた本の無料キャンペーンがkindleにてあります。よろしければどうぞ。


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