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娯楽性の推移 2

 前回の続き。ゲームと広義の娯楽性、特に物語との関係について。娯楽性商品性などの用語はそれぞれのリンク先を参照のこと。

 今回は、広義の娯楽性と商品性との関係について。広義の娯楽性、つまり物語もそれ自体で商品足りえる。小説や映画、漫画などが該当する。それぞれ物語の表現方法、つまり文字だけなのか、絵があるのか、映像もあって音もあるのか、といった違いはある。方法に差はあれど、重要なのはそこで展開されている物語だ。それぞれの表現方法にも差―特有の特徴―はある。この表現は映画的だとか、漫画的だとか、小説的だとか、そういわれるものだ。ゲーム的な表現方法というのもあるだろう。例えば、ゲームシステムを説明する時に、登場人物に説明させるやり方がある。
 場合によっては世界観にそぐわない言動をしたり、他のキャラクターとの関わりで「お前何言ってるんだ?」となる事もあろう。脈絡もなくいきなり「セーブポイントはここだぜ!」みたいな事を話始めたら、同じゲームのキャラクターからしてみればそりゃ「お前どうした?」って思うよ。これがいわゆる第四の壁という奴である。

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 例えば映画なら、チケット代あるいはDVDやBDや視聴料が商品としての一面にあたる。漫画や小説であれば、書物を購入する事がそれにあたる。
 我々が普段「ゲーム」と呼ぶ物の多くには、程度の差こそあれこのような物語が存在する。TPSやFPSのようなアクションゲームであっても、簡単な筋書きや舞台設計が用意されている事があろう。ただ、このようなタイプのゲームで優位なのは狭義の娯楽性だ。物語の存在感は薄い。
 逆に、物語を全面に押し出すようなゲームもある。これは広義の娯楽性が優位にあるゲームと言えよう。分かりやすい例ではノベルゲームがそうだ。
 ゲームといっても色々あるが、ゲームといえばRPGだろう。RPGはこのように特徴付ける事が出来よう。つまり、狭義の娯楽性のアクションを物語に組み込むという特徴がある。これにより、ゲームでの狭義の娯楽性と広義の娯楽性とが非常に近く存在するようになった。

 物語のような広義の娯楽性では、物語それ自体が商品としてある。その物語の表現手段が映像なのか、文章なのか、絵なのか、音声なのか、あるいはこれらを複数兼ね備えているのかは表現の方法の差に過ぎない。
 ゲームの売り方も、広義の娯楽性のこれを反映する。シリーズ化というのも、広義の娯楽性の影響があるだろう。狭義の娯楽性では、ルールの変更か不具合の修正がない限り、続編を出す必要は必ずしもない。
 とはいえ、現実の狭義の娯楽性が優位にある多くのゲームでは、ルールの変更やゲームバランスの調整が行われるだろう。続編を出す必要がないというのは原理的な話であって、プレイヤーの嗜好や思考の変化を考慮していない。
 現実的な話ではなく原理的な話を展開するため、狭義の娯楽性が優位にあるゲームとして将棋ゲームを挙げよう。このゲームの機能が単純に将棋をするしかない場合に、このゲームの続編は果たして登場するだろうか?狭義の娯楽性の比率が高く、物語の存在(広義の娯楽性)に欠けプレイヤーが全くの静的であるゲームを想定すると、おおよそはこうなる。
 このようなゲームに、積極的に課金しようとするプレイヤーはあまり多くないだろう。狭義の娯楽性は恐らく、金になりにくい。金になりにくいというのは、例えば単なる将棋ゲームを作ったとして、何十万円も課金するプレイヤーが、果たしているのだろうか?そのような課金がなされる場合には、プレイヤーへのゲームからの働きかけが確実に存在している。
 同様に、同じ本を何冊も買う必要があるだろうか?漫画の同じ巻数の単行本を、何冊か間違えて買ってしまうという事はあるだろうが、わざわざ買う事は殆どないだろう。保存用と布教用とを買うにしても、全体で3冊だ。

 娯楽性と商品性との間には大きな隔たりがある。
 将棋をする場所、将棋ではないが雀荘のような場所を想像してもらいたい。そのような場所への参加料として、つまり将棋などのゲームをするのに必要な経費として課金(という言い方が適切かどうかはさておき)をする事は珍しくないだろう。
 これは、物語の表現方法としての映画や本への支払いに相当する。
 つまり狭義と広義とを問わず、娯楽性はプレイヤーが料金を支払う対象としては向かない。場所や仕様する道具(将棋では駒がそうだ)への課金を迂回する必要がある。アーケードゲームなどによく見られる形だろうが、プレイ料金を徴収する方式というのも、ゲームを行う入場料を徴収する方法に相当する。
 人や場所に依るだろうが、このような場所で将棋やら麻雀やらをする時には、将棋や麻雀以外の要素があるだろう。例えば対戦相手や参加者、同席者との交流などもあるだろう。今まで例に挙げてきたような、単純に将棋だけをするゲームにはこのような交流が一切ない。
 このような交流の欠落を埋め合わせるような形で、ストーリーがゲームに組み込まれたと考えてもいいだろう。純粋な狭義の娯楽性しか存在しないゲームの隙間に、広義の娯楽性が入り込む余地があった。別の言い方をすれば、純粋な狭義の娯楽性しか有しないゲームの方が、存在として歪である(あった)ともできよう。

 余談だが、ここでの「ゲーム」というのはいわゆる「コンピューターゲーム」の事を指している。現実で行われる将棋やらトランプやら花札やら坊主めくりやらの、ルールしか再現できない。実際のゲームをしている場の空気までは再現できない。
 これはもちろん、現在の多くのゲームがそうあるというだけの話で、未来永劫このような仕組みであり続けるかどうかはわからない。例えば、VRのアバターの集まりで、みんなでワイワイ話でもしながら坊主めくりをする未来が来るかも知れないし、来ないかも知れない。以上余談終わり。

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 基本的に現在のゲームで展開される物語に対するプレイヤーは、必然的に受け身である。プレイヤーからゲームに登場するキャラクターへの働きかけもまた、一方的なものにならざるを得ない。
 ゲームに限らず物語の聞き手は、自分が話を作る側にならない限り、受け身にならざるを得ない。これとは逆に、狭義の娯楽性でのプレイヤーは受け身ではない。自分から積極的に効率の良い動きや、状況の判断、クリアの方法を考えなくてはならない。プレイヤーにも、目的が求められる。ゲームが無条件に自分の楽しみに奉仕してくれる事を期待すべきではない。

 ゲームは、この両者の特性をそれぞれ持っている。バトルパート、つまりアクションの要素において、その行動を物語で補強する事は珍しくないだろう。この場合、物語はプレイヤーのアクション(狭義の娯楽性)に意味を与える。アクションに意味を与えるこの物語は、「物語」である必要は必ずしもない。
 つまり、登場人物がいたり、起承転結があって奇麗にまとまっていたりする必要は必ずしもない。1より2の方が数字が大きいからすごい―小学生の口喧嘩のようだが―、勝ったからすごい、という自分ルールでもいい。
 具体例を挙げると、ただ将棋をするのではなく、将棋大会を開くようなものだ。優勝賞品があるとなおよい。狭義の娯楽性が優位のゲームでは、囚われのお姫様を救出するような「物語」よりかは、ランキング形式の「物語」の方が親和的だろう。この場合の、順位が上だとえらい・楽しい・嬉しいといった評価も、広義の娯楽性に含めてしまってもいいだろう。物語と区別して名前を付けるとしたら、娯楽性の外部とかになるだろうか。ゲームというより、プレイヤーの価値観というべきだろうか。とはいえ、ゲームもそのようなプレイヤーを想定して設計されているという意味で、ゲームに存在する価値観といっても、これまた間違いでは無かろう。

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