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ジャンルとしてのクソゲーと商品としてのクソゲー

クソゲーについて考えてみたい。クソゲーとは何か、と言い換えても良い。クソなゲーム、略してクソゲーである。人は何をしてゲームをクソとするのかというと、不快であるためだ。不快の方向性は、大きく二つに分けられる。ひとつはゲームの芸風とプレイヤーの好みとの不一致、他方はそれ以前のものだ。後者は、例えば読み込むに信じられないほどの時間を要する等のゲームの進行すらままならないようなもの、ゲーム機を破壊する等の例を挙げられるが、こうしたものを擁護することは非常に難しい。バグまみれである、ゲームバランスが雑であるだとかいった理由からゲーム性が稚拙である、といったものとは一応の区別をしても良いだろう。前者を、ゲーム以前の問題と、後者をゲームの問題とできよう。

このうち、前者のバグやゲームバランスの不安定さに代表されるようなものには、比較的、再評価の余地が残されている。そういう芸風である、という解釈の余地を残すためだ。いわゆる「クソゲーハンター」だとか「クソゲー愛好家」といった存在が可能であるのは、常識から外れた奇天烈な挙動がクソであるのか、あるいははたまたギャグであるのか。基本から外れているという意味において、両者は近しい。頻繁にではないが、両者が逆転することはある。

クソゲーが存在するのはさらに、商品としてゲームを評価する眼差しと無関係ではない。個人の趣味の範囲で製作されたゲームのゲームとしての品質が仮にそのような水準にあったとしても、わざわざそれがクソゲーであるとして町中を引きずり回され、吊し上げられることはまずない。そうした扱いを受けることは、全くないといって良い。個人の趣味の範囲であるものが批判に晒されることがあるとすれば、ゲームの質にではなく、その外側に、例えばあまりに不適切・不謹慎である、盗作であるとか、そうした理由であろう。
商品をやり取りする場、つまり市場は、頑張りを評価する場ではない。単に欲望を満たす場である。製作する側にとっては金銭的な利益、購入する側にとっては快適なゲーム体験を得る場である。特に過去においては、購入する側は購入するゲームがどのようなものであるのかを知ることが難しかった。さらに、コンピューターゲームというそのものがある立ち位置、それに対する期待値ないし期待感というのも、現在よりも遙かに期待のされるものであった。それ程までの期待感があるかどうかはさておき、心の底からとまでは言わないが、購入の決断には一定以上の期待感が背景にある。そうした期待感と実際のゲームを目前にした時の評価との落差を欠いて、クソゲーは存在しない。いわば、ジャンルとしてのクソゲーは、そもそもクソゲーであることに合意した上での購入が殆どだろう。クソゲーハンターやクソゲー愛好家の態度は、まさにこうしたものになる。それら肩書が成立するようになったのは、商品としてのクソゲーというのが文字通りの意味での地雷、つまり避けようがないものから、絶対にとはいわないまでも回避が可能なものになったこと、その上でクソゲーであることを前提に楽しむ態度が可能となったこと、こうした変化が根底にあるためであろう。

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