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随筆または"essay" i

梶井基次郎は、びいどろを口に入れて最大限の享楽を感じたと『檸檬』の作中でインプレッションしています。曰く『あのびいどろの味ほど幽かすかな涼しい味があるものか。』

梶井基次郎個人の追体験なのか、それとも、精密に組み立てられた「文学装置」の一機構なのか、小説という「虚構」の中では知る由がありません。

時折朝方の淡い夢のように浮かんでは消える、梶井基次郎「檸檬」についてフォトエッセイを書いてみたいと思います。

裏町に張り付いた顔 α7s , sony af 35mm f/1.4 sal3514g

さて、毎週毎週いくらか聖書を読まざるをえない生活が、ここ10年以上奇跡的に継続しているのですが、時折なにげなく意識に浮かぶ紀元前後あたりの人々の営みに我ながら意外な思いがします。これをある人は「聖霊」の働きと呼びます。
はて?梶井基次郎の『檸檬』の中には、表面的にみれば、聖書と響き合うような感覚は想い当たりません。隣人愛から遠く離れた一若者が、ただただ己の嗜好にのめりこんでいるだけなんですから!

芥川龍之介の晩年に『侏儒(しゅじゅ)の言葉』という作品があります。警句集とも言えます。どこから読んでも何か学んだような気がする不思議な文章の集まりです。読むのが楽ですが、ずいぶん長い間読み返していません。また、芥川龍之介はキリスト教に深く関心を持っていたようですが、なにが書かれてあったことすら忘れてしまいました。今や私には、旧約聖書の『箴言』がアクチュアリティなんです。

はなくれなひ α7s , nikon af-s nikkor 58mm f/1.4g

ところでわたしは、「サマリアの女」にいつも心打たれます。ヨハネによる福音書・4章に該当します。灼熱の午前中にサマリアの女が、日毎に水くみに井戸へ通います。そこで見知らぬ男に声をかけられます。

<4:3>ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。 <4:4>しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。
<4:5>そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、
<4:6>そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。

ヨハネによる福音書【口語訳】
井戸の底 α7rii , Sonnar t* e 24mm f/1.8 za

その当時のサマリヤ人の生活スタイルは、ユダヤ人の道徳観念からは許しがたいものだった。つまり、一人の女が複数の男と関係を持つからなのです。
だから、誰も進んで外に出ようとしない時分を見計らい、人目をはばかり水を汲んでいたのです。

びいどろ leica m8 , leica summicron 50mm f/2 1st collapsible(沈胴ズミクロン)

梶井基次郎のような友達をみなさんは必要とされているでしょうか?
この世を「幸せに」生き抜くための「ツール」として、「アート」を活用する人々にはまったく無縁な人だったように思えます。

一方、「檸檬」の主人公たる孤独な男は、そばに一人いてもどっちでも良いような静かな存在です。
これは、知らぬうちにはまり込む文学の罠のようなものでしょう。

「檸檬」の主人公は、肺の病が引き起こす発熱を恐れています。一方彼の伝記も死因は肺結核とされています。さて、びいどろの味を振り返ってみましょう。

『あのびいどろの味ほど幽かすかな涼しい味があるものか。』

一方、サマリヤの女は、キリスト・イエスに水を与えます。そして…

<4:16>イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。
<4:17>女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。
<4:18>あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。
<4:19>女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。
<4:20>わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。
<4:21>イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
<4:22>あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
<4:23>しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
<4:24>神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
<4:25>女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。
<4:26>イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。

ヨハネによる福音書【口語訳】
私の梶井基次郎像 α7s , carl zeiss distagon 35mm t* f/1.4 zm

「灼熱と静謐で冷たいもの、また聖なるもの。」
私の共鳴の核心はまさにここです。サマリヤの女は救済されました。一方、梶井基次郎がいかなる男であったとしても、彼がいわゆる「かわいそうな」男であったことに間違いないように思えます。

4:13
イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
4:14
しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
4:15
女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。

ヨハネによる福音書【口語訳】

わたしは、率直に女が欲するところを明らかにするこの1節に深く感動を覚えます。あたかも聖霊の働きのごとき美しく無駄のない告白です。

日本人の宗教観は風のように不確かで掴みづらい df , voigtlander color-heliar 75mm f/2.5 sl

少なくとも「檸檬」に私は、”救済への渇望”を繰り返し繰り返し感じ取ります。

そして、救済という恩寵は、自ら実現するものではなく、渇望のもとに降りてくる事象だと思います。梶井基次郎が、いや檸檬の主人公の立ち位置がやや畏れ深いものとして私の心の底に静まっているような気がします。

未読の方にはなんのことかわからない話ですが、敢えてくどくどと、作品を引用しません。ぜひ青空文庫やyoutubeで俳優の朗読をぜひ楽しんでください。


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