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みうらじゅん・愛とは?

みうらじゅんさんの感覚は
本当に共感できて
いつもうんうん頷いてしまう。

血液型が同じということもあるのか?

自分の思っていることのように
メチャクチャ心に響いてしまった。

なぜにこんなにも記したいのか?
と思ってみる。

悲しいかな
人はかつてどんなに感動した文でも
小説でも時間が経つと記憶も薄れる。

日常の体験だってそうだ
かつてあんなに嬉しかったことも
死ぬほど落ちこんだことも
大切だと思ってた人も
すべてはかなく淡い記憶となり
やがては忘れさられる。

だから人は写真に残したり
文章に残したり
音楽や絵や物語に残したりするんだろう。
100年後にはすべてが変化し
あなたもわたしももう居ないのだ。

すべてが風化し無と化す。

人が形に残したいと思うのは
そんな生物としてのカルマの
必死の抵抗なのだろうか?
たとえ誰にも見てもらわなくても。



以下
みうらじゅんさんの
文章です。



「愛とは?」

物に向ける欲(物欲)と
人に向ける欲(愛欲)は
実はいっしょだ。

「人は物じゃないんだから」
と、言われても
それを欲し、それを愛し、
それに飽きる感情は虚しいことにいっしょだ。

それがまだ手の届かないところにあったり、
努力だけではどうしようもないと
思っている時期は苦しくつらい。

もうすでにそれは他人の手に渡ってるかも知れないし、
自分より金があったりチャンスがあったりする人間がいつ何時、
手に入れるか分からない。
恋焦がれるとは単なる焦りに過ぎない。

物は何も言わないが、
それを手に入れるには金が要る。
裕福な者はいいと単純に思いがちだが、
裕福にも裕福のレベルがある。
さらに裕福なほうがいいからだ。

人は自分の今、
置かれてる立場より少し上の物に魅せられる。

手が届くか、届かないか
ギリギリの辺りに恋をする。

今年、ボーナスが出たら買うぞ

そんな決意が物欲に拍車を掛けるのだ。

まわりから「それは贅沢だ」とか、

「無駄遣い」だとか言われると、
むきになる。

本来、他人は人の出世や進級や成長を望まない。
望む者は、子供を自分の血を引き継ぐ使者
だと思っている母親だけだろう。

「高望みするな」
「おまえらしくない」

全てはその場に引き留めておくためのアドバイスだ。

店先で何度も手に取ってみる。
時にはショーケースに入っていることもあり、
ガラスを鼻息で曇らせ凝視し、
そのまわりを何度も往き来している姿に客観性はない。

そして、努力が実って
その物をやっと手に入れた時の喜び、
いろんな角度で見つめたり、
来客に自慢したり、
それでも足りない時は持参してまで見せびらかす。

「そんなに愛してるんだったら決して高い買い物じゃないよ」

他人にやっと認められ

「そうかなぁ ー」

と照れ笑い。

物欲との密月である。

しかし不幸なことに人は今、
置かれている位置から
さらに上のギリギリ手が届きそうな物に恋をする。

”あの芸能人の持っていたアレが欲しい”

自分が今まで満足してたものがちっぽけに感じ、
同時に、何だか自分までが
ちっぽけな存在として見えてくる。

上には上がある、
ということを知ってしまうからだ。

人は留まることに安心はするが、
慣れてくると退屈する。

人は成長していくことにしか
満足を得られない生き物なのだ。

あれだけ慈しんできた物が
次第に色褪せて見えてくる。

購入した時とどこも変わってはいないのに、
その全く変化しないことや

他人に奪い取られる心配がないことが
退屈の原因となっていく。

興味が薄れていくのは刺激がないせいだ。

人はそうして物を捨てる。

捨てないまでも、
目の届かない場所に追いやってしまう。

物は何も言わないので
人は罪悪感を抱くことなく、
また新しい物へと気持ちを移していくのだ。

相手から「愛してる?」
って聞かれた時、
人は少し動揺する。
それは二人が出会った時のような
感情が薄らいでいるからだ。

出会った時の二人なら、
何もそんなことを聞かなくても
答えは分かっていたはずだ。

改めて聞かなきゃならないほど
退屈は進行してしまっている。

「愛してるに決まってるじゃないか!」

むきになって答えた時、
それほど愛してないことにハッキリ気付く。

物への欲ではなく、
人への欲の場合、
そういった確認作業や、
自分だけが損をする悔しさ、
淋しさが恨みに替わることがある。

それは二人の感情が
スタート地点では同じだったにもかかわらず、
退屈するスピードがあまりに違う場合に生じる。

「昔はもっと優しかったのに」 とか
「信じてたのに」
といったよくある責め言葉は、

“あんただけ成長するのは許さない“
という恨みが含まれている。

先ほども述べたように、
他人は人の成長を望まない。

「ずっと、いっしょにいようね」とは、
成長をこのまま二人同時に止めることを示すので、

あまり軽はずみで言わない方がいいだろう。

物と人との違いはここだけであって、
後はほぼ同じである。

じゃ、この世に愛などないのだろうか?

仏教では愛は迷いの根源であると説く。

”愛欲”“愛着“”渇愛”

これらの正体は煩悩であり
ここから解放された者のみが悟りに近づくという。

それは何故か?

それは慈愛の響きこそ似ているが、
恋愛とは互いの自愛にほかならないからである。

「君のためなら死ねる!」

などという大袈裟な愛情表現は、
そんなことを言い切れる
自己に陶酔しているだけだ。

全て相手のことを想ってやっているようでも、
実は相手の反応がイマイチだった時、
突然失望に変わってしまうのはその証拠だ。

本来、自愛とは見返りを期待しない母親のような無償の愛。

それ以外はいくら御託を並べても、
自愛に過ぎない。

「お金持ちでぇー、医者でぇー、私にだけ優しくてぇー」、

などヌカす女が気に食わないのは、
誰しもどこかで望んでいて、
それを隠して生活しているのにもかかわらず、
ズケズケとヌカすからだ。

趣味趣向は違えど、
誰しもが“私にだけ優しい“相手を求めている事実は否めない。

互いが死ぬまで互いだけに優しい関係。

そんな奇跡もあるかも知れないが、
大概はそうではない。

互いが、ラブクレイジーで
キープオンする確率は何万人に一組、

いやもっと少ないかも知れない。

映画やドラマがこぞって
そんな二人のテーマを取り上げるのも、
あまり例のないことだからだ。

だから人は、
努めて自分など大したことはないと思うべきである。

理想の彼、理想の彼女が現れる人は結局、
自分が理想の彼、
理想の彼女とまわりから思われている人なのである。

自分など大したことはないと思っていれば、
自分のレベルに合った人と出会えるチャンスもあるだろう。

相手のレベルに合わせようとした時に迷いが生じるのだから。

セッ○スは日本語にして性交、
男性と女性が交わること以外に大して意味はない。

意味があるとすれば、
気持ちがいいということことである。

互いに愛し合ってないと、
してはいけないというのは嘘で、

この世から消滅することはない
フーゾクがそれを証明している。

実は誰とでも出来ないことはないが、
万が一受精した時に責任は取れるのか?
が一番大切なことなのである。

「生理が遅れてるの」と言われた時の男の反応が如実である。

若い頃は自分の限界がどこまでなのか、
まだ試していないので
大それた将来の夢を抱くことがある。

その夢と天秤にかけて、
子供が出来ることの実感を味わう。

付き合ってる女はお荷物にならないが、
身篭った彼女はどうだ?

その時、初めてセッ○スなど大したことではなく、
その後が大切なことだと気付くのである。

生き物にとってセッ○スとは子孫繁栄の単なる過程に過ぎず、
そこで得られる快感などオマケ程度のものだ。

女性に適齢期があるのは
単に負け犬にならないためではなく、
子作りに適した期間があるということを示している。

遊び人と自称している男女は、
何も本当に遊んでいるのではなく、
たくさんの男女と交わり、
たくさんの子孫を
この世に残そうと無自覚に思っている人たちだ。

セッ○スの快楽など、
その後の心配を考えると、
オ○ニーで済ましてしまうほうが楽
とするのが真面目な考え方である。

それだけでは虚しいと感じる男たちは、
働いた金を一瞬の快楽と引き替えてもいいと
フーゾクに向かうのである。

しかしフーゾク嬢もまた、どこかでは子孫繁栄を望んでいるのである。

SMは究極のセッ○スだという人がいる。

フツーなら何擦れで射精してしまうところを、
我慢に我慢を重ね出来るだけ快楽を長持ちさせようとする。


真のSMになると性交はない。

子孫繁栄のカルマから必死で逃れようとしているのだ。

SMがアブノーマルといわれるのは、
相手を縄で縛ったり、
浣腸したりするからではなく、
子作りに繋がらない行為のみをするからだ。

しかし、そんな人類の反抗にも終わりがくる。

始めあるものは全て、終わりがある。

その真理だけには逆らうことは出来ないのだ。

マゾの女性とて、
子孫繁栄を無意識に望んでいることもある。

真のアブノーマル、
変態と呼ばれる人になることは並大抵ではないのだ。

もう一度、述べておくが、
大した人などこの世の中には一握りしかいないということ。

それがわかった上で、
理想的なパートナーとはどういう人なのか?

理想のセッ○スの形とは?を考えてみよう。

それは自分にとって
大変、都合のいい人という結論だ。

都合のいい男とか、
都合のいい女という表現は、
世の中では悪いことになっているが、
果たしてそうだろうか?

出家でもするのなら、
自分のことは除外して、
他人のために生きねばならない。

この世のどれだけの僧侶が
それに従事しているのか私は知らないが、
そうではない人間の残された道は、
自分に都合がいい相手を探すことである。

来て欲しい時に来てくれて、
優しくしてほしい時に優しくしてくれて、
慰めて欲しい時に慰めてくれる人。

そんなタイミングがいい人がいれば
その人に越したことはない。

そんな人のことをセッ○スに溺れる前は
友達と呼んでいた。
さらに言うと親友。

友達は似た環境、
似た生活状態から生まれ易い。

ライバル意識はあるにせよ、
それを見せ合うと友情を壊す恐れがある。

相手に「いい奴」と言わせ、
将来は葬儀委員長を任せてもいい奴。

友達でい続けるには、
相手に都合のいい奴となることが先決だ。

「こんな時にもアイツはいてくれた」が、肝心だ。

男と女に友情は成立しないという意見が多いが

その原因は全て
子孫繁栄のICチップが性器に埋め込んであるからだ。

でもこれだけは言える。

同じ相手ではいずれ満足しなくなる。

この真理を逆手に取って、
しなくなってもいっしょにいることだ。

我慢出来ないのなら外でなんとかしろ。

当然バレることなく。

いずれ性欲に勝つことも約束されている。

それを世間では”枯れる”と言うが、

その時こそ
真のパートナーがそこにいることに気付く時だ。

若い頃はとかく結論を出したがるが、
人生にとって結論とは死ぬことであり、
それは正解でも間違いでもない。

“愛“が見つからなかったといって
不幸では決してないことを知ることだ。


みうらじゅん

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